この肖像画は歴史の教科書でも採用されている、あの有名な戦国武将の織田信長です。
Oda-Nobunaga (3)
昭和10年に国の重要文化財に指定されている「紙本著色(しほんちゃくしょく)織田信長像」の部分図です。

このお宝は豊田市の長興寺が所蔵しているものなのです。
そのお寺は豊田市街地から南へ2~3キロほど行った矢作川右岸に有ります。
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お寺の境内へ車が出入りできる通用門の北側には長い白壁の土塀が続いています。
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通用門を入るとすぐに、大きな石碑が有ります。
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石碑には「集雲山長興寺 愛知縣」と刻まれています。
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この石碑の左方向に鉄筋コンクリート造りの本堂が有り、
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本堂入り口に銘板が掲げられていました。
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本堂の横には、昭和55年に本堂庫裏を再建した記念碑があり、
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本堂の前には、豊田市教育委員会が作成した説明板が立てられていて、長興寺の説明が書かれていました。
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寺宝の中に書かれている「織田信長像」が「紙本著色織田信長像」のことです。

本堂の正面方向(南の方)に向かうと山門がありました。
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こちらが参道の入り口で、門には「長興寺」と書かれた銘板が掲げられています。
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それでは、なぜ長興寺に信長の肖像画があったのかについて調べてみました。

長興寺は室町時代初期の建武2年(1335年)に中条備前守秀長公が、菩提寺として建立したものです。
(境内の片隅に中条秀長公のお墓がありました)
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当時の寺域は、南北5丁(約550m)余り、東西4丁(約440m)余りあり、地域で最大の寺院でした。

永禄10年(1567年)、余りの偉容に城と間違えた織田信長の兵火によって長興寺は焼失してしまいました。
その後、信長の命で家臣の衣(挙母)城代・与語正勝によって長興寺は再興されました。

信長が天正10年(1582年)6月「本能寺の変」で倒れると、与語正勝は主君の死を深く悲しみ、信長像を京都の画家狩野元秀に描かせ、翌、天正11年6月の1周忌に長興寺に納め、法要を営んだと伝えられています。
この時納められた信長像が、全国的に有名な「紙本著色織田信長像」であり、今日現存している信長像のなかでは最も真の容姿に近いものといわれています。
Oda-Nobunaga (2)
肖像画の上側には、
天徳院殿一品前右相府
泰岩浄安大禅定門 
天正十年壬午六月二日御他界

と書かれています。
右の二行は信長の戒名で、天正十年(1582年)壬午(みずのえうま)6月2日は本能寺の変で明智光秀に襲撃された日です。

下側には
右信長御影
為御報恩相
當於一周忌之
辰描之三州
高橋長興寺
与語久三郎
正勝寄進之 
天正十一年六月二日

と書かれています。

現代文に訳すと

右は信長のお姿です。
御恩に報いるために、
一周忌のとき、
これを描く。
三州(三河国)高橋の長興寺へ
与語久三郎正勝より
これを寄進する。
天正十一年六月二日

となります。

この複製が豊田市郷土資料館にあり、いつでもみることができるように展示されています。

豊田市郷土資料館では、開館50周年記念企画として、今週の日曜日(2017年2月26日)の午後から「織田信長像のなぞをさぐる!」というテーマで、ギャラリートークが開催されます。
なぜ、豊田市内に織田信長像の掛軸が伝わっているのか?
豊田市郷土資料館常設展に展示中の複製を見ながら、描かれている織田信長像や、信長と市域の関わりの歴史について話しがされるということです。