豊田市指定史跡の一つ、豊田市小坂本町にあります七州城(しちしゅうじょう)址を紹介します。
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七州城は、豊田市の市街地中心部を見下ろす小高い台地上にあります。
標高60mにある典型的な平山城で城全体の面積は約20haです。
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江戸時代、挙母藩2代藩主内藤学文(さとふみ)は、矢作川に近い低地に桜城(挙母城)を造っていましたが、度重なる矢作川の氾濫による洪水のため築城をあきらめ、この地への移転を幕府に願い出て許されました。

安永9年(1780年)に築城を開始し6年余りで完成、以後明治維新まで85年間、内藤家6代の居城となったお城です。

散策路に豊田市教育委員会の説明板がありました。
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七州城は通称で、正式には地名の通り「挙母城(ころもじょう)」といいます。
この城からは、三河の山河をはじめ、遠く信濃・美濃・尾張・伊勢・近江・伊賀の7つの国の山々が望めるところから「七州城」と呼ばれました。

この7つの国について、今年のある信用金庫のカレンダーには「伊賀の国」が「遠江の国」と書かれているものが有りましたので、豊田市郷土資料館に問い合わせたところこんな返事をいただきました。

七州城の7つの国について、資料館では「伊賀」を含めており、「遠江」を含めておりません。
その根拠は、挙母藩家臣であった人物が記した『七州城沿革小史』に「伊賀」」とあるためです。
インターネットでは「遠江」という説もあるようですが、その資料的根拠が確認できません。
ということでした。

隅櫓の後ろ側の散策路に「擧母城址之碑」と刻まれた大きな石碑もありました。
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明治時代に描かれた七州城図が、七州城の様子を伝えています。
挙母藩士の子で画家の牧野敏太郎が挙母城の情景を実見した記憶に基づき、明治20年代に描いた七州城の鳥瞰図です。
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この図は七州城を南東上空から見た構図で、中央少し手前に大手門を、奥に本丸を据えて城郭全体を遠近法で描いています。

散策路の説明板にその図がありました。
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この画を参考として昭和53年に復元された七州城の隅櫓(すみやぐら)です。
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この隅櫓は、城の端の角に建てられた櫓で、戦いの時には敵を防ぐための施設で重要な働きをしていたものです。
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石垣は築城当時のものだそうです。
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隅櫓の正面には「七州城隅櫓再建之碑」と刻まれた石碑が置かれていました。
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江戸時代には七州が見渡せたといわれる高台ですが、現在では建物などが邪魔をして見渡せませんが、白壁と石垣の隅櫓は豊田市街地を見つめています。