先日、豊田市近代の産業とくらし発見館(略称:くらし発見館)で開催されている企画展の「今のとよた、昔のとよた」に訪れた時にいただいたパンフレットの中に、あまり知られていない史跡があることを聞きました。
その史跡は豊田市十塚町にあるという「熊野(ゆや)が松 伝承地」です。
下の写真は、企画展のパンフレットの中から切り取ったものです。
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パンフレットの中に載せられていた昭和15年の挙母町の鳥瞰図には「⑧湯屋ヶ松」という文字で書かれている場所です。
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その場所は、絵図の中では ⑥挙母神社や ⑦城址(桜城跡)の南側の方角になっています。
くらし発見館の人の話では「とよたエコフルタウン」と「イオンスタイル豊田」の間にあるということだったので訪ねてみました。
12月20日(水)、エコフルタウンに車を停めさせてもらって、その場所を探しに行くことにしました。
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絵図では路地を入って行くように書かれているので、十塚町内の路地を歩き回りましたが、なかなかその場所が見つかりませんでした。
探すのをあきらめかけて、くらし発見館の人に聞こうと思って、イオンスタイル豊田の北の角の十塚町3丁目の交差点からエコフルタウンの駐車場に戻る途中の道端に、パンフレットの中の写真に載せられているものと同じ標柱を見つけました。
下の写真の左隅にある長さ1メートルほどの太い柱です。
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この場所を探すのに、目安になると聞いていたパブの建物が解体され、更地になっていたので、つい通り過ぎてしまいそうなほどの、小さな標柱でした。
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駐車場の一角に、広さ1㎡ほどの場所に、パイプの柱とチェーンで保護された標柱には、「熊野が松伝承地」と書かれています。
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標柱の近くに松の木は植えられていませんが、標柱の根元の金属板に書かれた案内板がありました。
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熊野(ゆや)が松伝承地
「熊野(ゆや)」は平宗盛(たいらのむねもり)に仕えていた女性で、宗盛の没後尼となりこの地に草庵を結びました。
この草庵には一本の松が植えられ、熊野が建久九年(1198)に亡くなった後も、松は代をかえながら「熊野が松」として大切にされ続けました。

※熊野の墓は、出身地の磐田市「行興寺」にあります。

能の代表曲「熊野」は、この熊野を主人公にした名曲です。

都で平宗盛に仕えていた熊野は、国元からの知らせで母の病を知り、宗盛にいとまを請うも許されず、花見の供を命じられてしまいます。
東山では酒宴が始まり、熊野はしぶしぶ舞を舞いますが、にわか雨に花が散りかかる様と母の命が重なり、涙ながらにその心情を和歌に詠みました。
宗盛はこの歌を聞き、その場で熊野に暇を許します。

 いかにせん みやこのはるもおしけれど なれしあずまの はなやちるらん

(熊野が松伝承地 案内板より)

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ここに書かれている熊野(ゆや)の生まれた国は、現在の静岡県磐田市で、天竜川の左岸にある行興寺に熊野御前が植えたと伝えられる国の天然記念物に指定された「熊野の長藤」があります。
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私のアルバムで確認したら、10年ほど前の5月初旬に「ゆやの長藤まつり」が行なわれている「熊野記念公園」を訪ねたことがありました。
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説明板には熊野が植えたとの伝承があると書かれています。
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推定樹齢が850年ともいわれている「熊野の長藤」です。
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熊野は藤の花が大好きだったそうです。
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この藤の近くに熊野の母の墓と並んで熊野御前の墓もありました。
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その熊野御前が、三河の衣の里で草庵を結び、平宗盛や平氏一門の菩提を弔いながら天命を全うしたということです。
その時に熊野の住んでいた衣の里の庵の側に生えていた大きな松は「熊野が松」と呼ばれるようになったということです。

重複しますが、インターネットで見つけた熊野(ゆや)御前の話を付け加えます。
平安時代末期頃、遠州国池田宿の長者に美しく、頭も良い娘がいた。
娘の名は熊野(ゆや)といい、久しく平宗盛の側に仕え、都住まいをしていた。
治承4年(1180年)、老母の病が重いという国元から知らせが届いた。
熊野は母の手紙を携えて、宗盛にいとまを請うが、これを許さなかった。
その代わりに、東山での花見の共を命じられる。
人々は春の装いで色めき立っていたが、熊野の心は重かった。
酒宴の場で熊野は舞うことになるが、にわかの雨で散りゆく桜の花を見ると、母の命が思いやられ、涙ながらに心情を和歌に詠んだ。

「いかにせん みやこの春もおしけれど なれしあづまの 春やちるらん」
さすがに宗盛も哀れに思い帰郷を許した。
しかし、熊野の懸命な看病にも関わらず、老母は亡くなった。
母の葬儀を済ませると、宗盛の待つ都へ戻ることにした。
ところが、衣の里(愛知県豊田市)まで来たところ、源氏と平氏とで大きな戦が行われ、平氏一門は西の方に追いやられ、滅ばされてしまったという事実を知ることになる。
母を失い、主人であった平宗盛も戦死してしまったことを思うと、悲しみは深くなるばかりであった。

熊野は、この衣の里に落ち着くことにした。
大きな松の木の側に粗末な草庵を結び、髪を下ろして尼になった。
そして、毎日宗盛や平氏一門の菩提を弔う為にお経を唱えて暮らした。
建久9年(1198年)5月3日、この地衣の里で天命を全うした。
その後、熊野の住んでいた庵の側に生えていた大きな松は「熊野が松」と呼ばれるようになった。

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現在、松の木は枯れ果て、豊田市十塚町にある駐車場の片隅に「熊野が松 伝承地」という標柱だけが残っています。