豊田市街地から国道153号線で足助方面に向かうとき、矢作川の堤防に出てすぐに籠川に架かる荒井橋を渡って下ると右側に見えてくる木立の茂る神社が見えてきます。

いつも通り過ぎている神社ですが、古い神社のようなので立ち寄ってみました。
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石標には「郷社 式内 兵主神社」と刻まれています。
神社の名前は「兵主(ひょうず)神社」と呼ぶようです。
創建は不詳ですが、「延喜式神社の調査」によれば崇神(すじん)天皇の頃の創建といわれています。
崇神天皇は第10代の天皇で、西暦では紀元前90年ごろの時代になります。
古代氏族 加茂氏と関わりのある神社と考えられます。
もとは「大島明神」とも称していたようです。

豊田市教育委員会が昭和60年3月に発行した『豊田の史跡と文化財』に書かれている内容では・・・
延喜式にも名の見える由緒の深いお宮であり、本来の神社の位置は荒井町と梅坪町の中間の位置、 通称 ”大島” にあったと伝えられています。
籠川の流れが矢作川へ注ぐ付近で2つに分かれ島を作っていたが、 この島にあった神社が現在地に移されたものと言われているようです。
祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)で、大物主命は出雲神話で名高い大国主命(おおくにぬしのみこと)のことです。
日本の神話における中心となる神でありますが、その働きは国内平定、国土経営修理、天下巡行、農学、国土の保護と医薬温泉の神とも言われ、 まさにオールマイティな神様です。
兵主神社の祭神としてはまことに名が体をあらわした神様といえよう。
と書かれています。

兵主神社の正面は南東の方向を向いており、鳥居のその先は矢作川になり、川の向こうに寺部町があります。
鳥居の前の石柱には「本國官社 兵主神社」と刻まれています。
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神社の境内には正面の鳥居からの参道とは別に、斜めに抜ける真っすぐな道が残っています。
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この道は矢作川の川岸の反対側の寺部から続く古道の「柿野街道」を通行する人たちが、矢作川を渡船で渡って荒井の兵主神社に上がり、花本・御船・藤岡へと続く交易路であったと思われます。

狛犬や灯籠の奥に一段高いところにある兵主神社の拝殿です。
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また境内一帯は兵主神社社叢林(しゃそうりん)として豊田市の名木指定されています。
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境内にある常夜灯には由来が刻まれた石碑があります。
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常夜灯の由来 兵主神社
江戸末期、挙母町大字梅坪の三岡某
氏の寄進によるもので、昭和三十四年
伊勢湾台風で倒壊、その後再建の
話題あるも現在に至り、此の度境内
の美化整備を目的に貧者の一灯を
献じ再建の段階に至れり
平成十一年度 氏子総代一同
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と刻まれています。


また、豊田市の兵主神社について、別の書物の『愛知の式内社とその周辺』(小林春夫著、式内社顕彰会、平成13年5月)216、217頁には以下のように書かれています。

祭神は7柱になっていますが、元々は大物主命・須佐之男命・三穂津姫命の3柱が祀られていたようです。
江戸時代には、社地の西方に水が流れ、島のようであったので「大島大明神社」と呼ばれていたようです。
高橋荘荒井村は、縄文時代中期から人々が住み、拓けて行った地域で、このことは高橋遺跡・舩塚古墳などから推定されます。(舩塚古墳は、 矢作川と籠川との合流地点、縄文時代から平安時代にわたる複合遺跡で伊勢湾海浜地帯との交流を示す糟畑式土器が混在している。)
恐らく加茂氏の一族が此の附近に住み、祖神を祀ったのではないでしょうか。
加茂氏は、大物主神の子孫という大田田根子命の孫、 大賀茂都美命を始祖とする氏族です。
三穂津姫命は、いわゆる宗像三神の長姉で、この地に住む加茂氏の人々が、矢作川を使って交易することが多かったので、 航海安全の神とされる三穂津姫命を祀ったのでしょう。
社伝にも、「高橋荘大島郷、大島大明神、磯城瑞籬(崇神天皇)御字、 加茂君大鴨積命、暫居 此郡、以 其祖先之神 而祭 大物主神 配以 三穂津姫」とあります。
境内地は、3600余坪、山林2町歩もあり、立派な社風を残しています。
戦前は梅坪地区も含まれ、氏子区域も広汎に渉っていたようです。

以上、豊田市の兵主(ひょうず)神社についての情報です。