やつば池散歩道(豊田市)のブログ

やつば池(八ッ谷池)は、私が住んでいる豊田市朝日町と、その隣の丸根町に接する小さな農業用の溜め池です。              やつば池を周回する散歩道を元気に歩ける幸せを感じながら、地域の話題や情報を発信します。

カテゴリ: 歴史

豊田市の矢作川に今回新たに開通したの平戸大橋と、そのすぐ上流にある平戸橋との間の右岸側に、胸形神社(むなかたじんじゃ)が祀られてます。
胸形神社は全国的には宗像神社(むなかたじんじゃ)と表記されている神様で、宗像神社は、道主貴である宗像三女神を祀る神社です。
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宗像系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和及び伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にあります。
航海の安全を祈願する神社で、瀬戸内海沿岸や近畿地方の海沿いの地域に多く存在しています。

 

平戸橋町のこの神社の場所は、勘八峡とも呼ばれている矢作川の景勝地で、明治以前には矢作川上流から流されてきた木材を集積するなど、水運が盛んだった場所にもなります。
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境内の中央にある池には朱色の欄干の太鼓橋が架けられており、池の周辺に植えられているカエデの緑が欄干の朱色との鮮やかなコントラストを見せています。
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太鼓橋は通行可能ですが角度がきついアーチ橋です。
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宗像三女神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)を祭神としており、全国各地に同名の神社が存在している。総本社は福岡県宗像市にある宗像大社である。
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宗像神社(胸形神社)の他に、
宗形神社胸肩神社などとも表記されている神社です。
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宗像系の神社は、広島県の厳島神社など全国で5番目に多いとされていて、愛知県では蒲郡市の竹島に祀られている八百富神社もその系列の一つです。



明日で閉館する名古屋市栄の中日ビル。
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53年間の営業に幕を閉じます。
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今にも雨が落ちそうな空模様の中、中日ビルを訪ねてきました。DSCN2727
館内の店舗などはすでに閉じているためひっそりとした1階ロビーのエスカレータ前です。
天井の大きなタイル画がどうなるのか気になります。
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このタイル画の製作者は矢橋六郎で、作品名は「夜空の饗宴(よぞらのきょうえん)」といいます。
矢橋六郎は、全国で民間ビルや官公庁のモザイク壁画を手掛けた人で、ビル開館に合わせて作られた縦10メートル横20メートルの大型作品です。
1965年から4か月かけて完成したものだそうです。

久屋大通公園から見た中日ビルです。
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数年後には栄地区の開発計画にあわせて、新しい景観になりそうです。
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半世紀の歴史に幕を閉じる中日ビルでした。


豊田市久保町にある児ノ口(ちごのくち)公園内に「衣之君落別王命陵」と刻んだ石碑が建っています。
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この石碑のある場所には児ノ口社が鎮座しており、社の由緒には「前方後円墳があり、落別王(おちわけのおう)を祀っていること、虫歯に悩んだら炒り豆を供えて祈願すると速やかに治る」と書かれています。

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豊田市は、昭和34年(1959年)までは挙母(ころも)市でした。
挙母から豊田へと、トヨタ自動車の創業家の名前に変えたものです。
では、挙母とはどこからきたのでしょうか? 
古事記にその記録があるそうです。
古事記がつくられたのは710年。

それから今日までにたくさんの解説本が出版されています。
その古事記の垂仁天皇の項に、同天皇に落別王(おちわけのおう)という子どもがいて、「三川之衣君(みかわのころものきみ)之祖也」と記述されています。

三河の衣(ころも)君という豪族の祖先だというのです。

挙母は、この「衣」からきているともいわれています。
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三川之衣君 (みかわのころものきみ)は 三河国賀茂郡挙母郷(現・愛知県豊田市)を拠点としたとされる豪族でした。
古事記では同じく垂仁天皇皇子の大中津日子命の子孫として「許呂母之別(ころものわけ)」の記載もあるということです。


豊田市の歴史を語る史跡がこの公園にありました。


成人の日の翌日の1月15日 (火) 、豊田市の氏神様ともいえる挙母神社へ初詣でに出かけてきました。
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干支の亥が描かれた絵馬です。
参拝者に絵馬と一緒に破魔矢がン並んで置かれていました。
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正月三が日には賑わった挙母神社ですが、さすがに正月も半月が過ぎた平日なので参拝客も少なく、境内も静かな状態でした。
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お詣りを終えて帰るときに車を停めていた大鳥居の近くにある石碑に目がとまりました。
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「大鳥居 改修の碑」と刻まれています。
刻まれた文字を読むと・・・

昭和二年大鳥居を建立す。
昭和三十四年九月二十六日伊勢湾台風の直撃を受け境内樹木百五十本余倒れる。
山門を大破此の大鳥居も倒木により地上に落ち、笠木が折れる。
その後応急措置として金具にて継ぎ補修した。
以来四十年余の歳月を経過老朽化が進み、改修が必要となった。
平成十年十一月吉日 笠木の取かえをする。

挙母神社の大鳥居の全景です。
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昭和2年に岡崎市の石工が建立したものです。
伊勢湾台風の被害で折れた笠木とは鳥居の一番上の部分を言います。
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平成10年に改修されて今の姿になっている挙母神社の大鳥居です。

先日訪れた豊田市越戸町にある灰宝神社の境内に、二宮金次郎像がありました。
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その大きさは、背の丈が2. 2 メートルもあり、石造の二宮金次郎像としては国内最大級といわれています。
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石像が倒れないように左足の部分を石柱で支えています。
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この二宮金次郎像は、明治初期に地元の越戸村の出身で土木建築業の成功で財をなした「前田榮次郎氏」によって昭和の初めごろに寄贈された、岡崎の石材店で作られたものといわれているものです。
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二宮金次郎像は小学校などに立てられていることが多い中で、神社の境内にあるのは疑問ですが、どこかの学校から移設したものかもしれません。
この石像について、何も説明が無いので詳しいことは不明です。

先日、豊田市越戸町にある灰宝神社(はいほじんじゃ)を訪ねました。
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国道153号線沿いにある神社なので、この神社の前を車で通過されている方は多くおられると思います。
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灰宝神社の創建は、約1,300年前の飛鳥時代の慶雲3年(706年)といわれている歴史のある神社です。
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拝殿横にあった説明板です。
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灰宝神社の祭神は波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)です。
またの名を埴安姫命(はにやすひめのみこと)ともいわれ、波邇夜須(はにやす)は埴粘(はにやす)のことで、粘土であり大地でもある粘土をこね、形を造り焼いて土器を作った、陶芸の神様です。

この灰宝神社の境内に、昭和7年に建造され、当時としては珍しい鉄筋コンクリートで造られた宝物庫がありました。
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この宝物庫は、地元の越戸村出身で土木建築業の成功で財をなした「前田榮次郎氏」によって建てられたものです。
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境内に立てられている前田栄次郎翁の銅像です。

昭和18年、太平洋戦争末期となり、本土決戦に備えて国宝級の宝物類の分散疎開が閣議決定された時、この地方の西加茂郡出身で愛知県文化財担当の主事であった「小栗鉄次郎氏」が灰宝神社の宝物庫に着目しました。
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愛知県はトラックなどで灰宝神社の宝物庫に、熱田神宮の国宝や美術品、名古屋城の本丸御殿の国宝級の障壁画など4,700点余りを搬入したということです。
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その後、昭和20年5月に名古屋市内は空襲にあい、名古屋城の天守閣や本丸御殿などを焼失しましたが、国宝類は灰宝神社の宝物庫のおかげで守られました。
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今年(平成30年)6月に復元された名古屋城の本丸御殿で展示されている障壁画の中に、灰宝神社の宝物庫で空襲からの難を逃れたものが再び輝きを増して、多くの観光客を楽しませています。

その中の1つ、名古屋城本丸御殿・玄関一之間東側の襖絵「竹林豹虎図」です。
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江戸時代の慶長20年(1615年)制作の国の重要文化財指定の宝物です。

灰宝神社について調べることで、こんな素晴らしい役目をした人物や建造物が豊田市内に有ることを知りました。







豊田市足助を通る現在の国道153号は、江戸時代には伊奈(伊那)街道、明治以降には飯田街道と呼ばれた街道で、中山道の脇往還として庶民の生活にとって重要な道でした。
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この街道は三河湾で採れた塩や海の産物を信州や美濃地方へ運び、帰りには山の産物を持ち帰って、尾張や三河方面に送り出していました。
天保年間(1830~43)には塩問屋が14軒もあったといわれています。
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西町は足助の宿の、西の玄関口にあたり明治から大正にかけては宿屋が軒を連ねていたところです。
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旧街道の辻には、江戸時代後期の弘化3年(1846年)の道標(みちしるべ)の石柱が立っています。
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「右 ほうらい寺道 左 せんこう寺道」と深い文字で彫られています。
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ほうらい(鳳来)寺とは東三河の新城市にある古刹です。
せんこう(善光)寺は信州飯田の先にある長野市の有名なお寺のことで「一度お参りすれば極楽往生できる」と言われ、江戸時代末には「一生に一度は善光寺まいり」とまで言われるようにもなり、全国各地から多くの人がお参りに行ったそうです。

道標の前に立てられている説明板です。
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広い道の一筋奥に、この道標が立てられているので見落としがちですが、足助の町並みに残る貴重な道標です。


6月末で閉店される名古屋の丸栄百貨店のあゆみパネル展を見に行った後に、テレビ塔の近くに旧飯田街道のスタート地点があるということなので、その場所を訪ねてみました。
名古屋市東桜一丁目の道路で、この表示板を見つけました。
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「飯田街道 OLD  IIDA  HIGHWAY」の文字の他に何も書かれていませんが、矢印とゼロの数字が「ここから飯田街道がスタート」って意味していると思います。
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この道路は、飯田街道の行く方向とは逆方向の一方通行になっています。
地図では、赤丸の場所になります。
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別の資料には、飯田街道は名古屋城下から八事興正寺に向って斜めに貫き、豊田市を経由して長野県根羽村、阿智村を経て飯田市へ到る道とも書かれています。
正しくは下の図のように、名古屋城の南にある本町筋と伝馬町筋が交差する場所の高札場があった「札の辻」が各街道のスタート地点だったようです。
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その場所は、現在の名古屋市中区錦の桜通り本町交差点の一本南の伝馬町通本町交差点の北西角になります。

江戸時代、尾張名古屋から東海道、中山道などへと至る道の起点となっていたのが「札の辻」という所だったようです。

 

尾張名所図会にある「傳馬檜所・札ノ辻」です。

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また一度、この場所をぜひ訪ねてみたいと思っています。

東桜一丁目の飯田街道のスタート地点の表示板から、少し斜め東に行ったところの高岳南交差点の角に小さな公園がありました。
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この場所を地図で見ると、三角形をした「駿河町街園」と書かれています。
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現在は駿河町の地名は有りませんが、昔の地名が書かれた資料には左下の場所に駿河町と書かれた場所が有りました。
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インターネットの「ひがしネット」に駿河町の町名の由来が書かれていました。

慶長年間、徳川家康が往来した街道筋で、駿河街道と称していたのをそのまま町名にしたのが由来といわれています。

また他の説には、この地は冨士塚に近いので、富士山のある駿河国にちなんで名づけられたともいわれています。


この駿河町街園を斜めに沿うように飯田街道があり、広い道(市道空港線)と交差して八事方面に向かっています。
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名古屋市内に残るこの飯田街道は、旧伝馬町を起点として市内を斜めに走り、豊田市の足助・稲武を通って長野県飯田に通ずる重要な交通の根幹のひとつとなっていた歴史のある街道です。




豊田市の寺部土地区画整理事業地域を散策していると、区画整理の影響で山門と鐘楼が新しく造り直された明勝寺というお寺がありました。
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真新しい白木が美しい山門と鐘楼です。
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山門の横にお寺の説明板が立てられていました。
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この説明板は、平成6年3月に寺部町の渡辺守綱公顕彰会が立てたものです。
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説明文の後半に・・・
本堂正面の欄間には、体は一つ、頭が二つの雌雄の龍の彫り物がある。
作者は、牛久保(現豊川市牛久保)の五左衛門と伝えられている。
二匹は向かい合っていて「一躯双頭の龍」と呼ばれている。
この龍は別名「雨乞いの龍」とも言われている。
日照り続きの夏に困窮した農民たちが、この彫り物を水で洗って雨乞いをしたところ、救われたと伝えられ、これに類する伝承はいくつか残されている。
と書かれています。

「雨乞いの龍」というのが気になったので、お寺の中に入ってみました
本堂の中にも入ってお参りが出来ました。

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本堂の中の正面に3枚並んだ欄間があり、説明板に書かれていた雨乞いの龍の彫り物がありました。
中央の一枚です。
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右側の欄間の一枚です。
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右側の欄間の龍の頭の部分を大きく写したものです。
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いかにも力の強そうな雄の龍です。

そして左側の欄間の一枚です。
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同じように左側の欄間の龍の頭の部分を大きく写したものです。
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どことなく優しそうな雌の龍です。
説明文にあったように左右二匹の龍が向かい合っています。

この雨乞いの龍の欄間にはこんな不思議な話が残っているそうです。
ある時、欄間を見上げていた男が、「これでは空を飛ぶことも、雲を呼ぶことも、雨を降らせることも雷を走らせることもできまい」と言い出した。
村人達は相談の末、自分達で洗ってあげることにした。
早速、村人達は、和尚にお経を上げてもらい、欄間から龍を外し、洗い始めた。
すると、今まで晴れ渡っていた空が真っ黒な雲に覆われ、風も激しくなり、大粒の雨が降り出した。
風はさらに激しくなり、雨は滝のようになり、田んぼから水が溢れ出した。
このような天候が四日五晩も続き、遂に矢作川の堤防は決壊し、家々や田畑もスッポリとのみこまれてしまった。
矢作川の流域は洪水のため、壊滅的な被害を被り、たくさんの死者も出た。それからというもの、この龍の彫り物に手を触れる者はいなくなったという。

以上がこの寺に伝わる雨乞いの龍の伝説です。




豊田市の矢作川左岸の寺部町、高橋町、上野町、千石町の一部を対象とした地区では、現在寺部土地区画整理事業が行なわれています。
すでに寺部小学校が移転しており、土地区画整理事業対象エリヤでは住宅を建てる前に、この地域に残る遺跡調査が同時に行なわれています。
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この寺部区画整理事業内に「遺跡発掘調査」の現場がありました。
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もうすでにほとんどの調査が終わりつつあり、今年の9月末で終わる予定です。
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何百年・何千年前にこの地に住んでおられた方々の、生活の足跡がこういった「遺跡調査」で明らかになると言う事です。
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先人の方々がこの地域にて生活し守ってこられ、現代が存在するという事に繋がります。

いつの時代の遺跡跡かわかりませんが貴重な発掘調査が行なわれているようです。
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調査が終わった地域は整地され、区画が整備されて新しい道路出来、住宅が建てられて、戦国時代からの歴史のある寺部地区が新しい街へと変貌していきます。




豊田市鞍ヶ池公園の東駐車場から公園の四季の古里への入り口の片隅に珍しい大きな石があります。
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この石は、東海環状自動車道の鞍ヶ池パーキングエリアの工事で、矢並町の城址にあったものをこの場所に移したものです。
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説明板があり「いぼ石」と書かれています。
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昔、西暦1850年代、この平和な矢並郷に、降って湧いたような疫病神が次から次へと伝染し、郷を挙げての大騒動になりました。
その病状は、一種の皮膚病で体全体に無数のイボが出来て、微熱があり、かゆみがありました。
そんな疫病神におそわれて郷全体が困りはてていた矢先、ひとりの長老が「神様の夢のお告げでダラバチ山の峠の大岩の水をつければすぐ治る。」と言ったところ、患者たちは藁をもつかむ気持ちで我先にとダラバチ山の大岩の水をもらいに行きました。

そんなことを続けて日がたつにつれて患者たちのイボが一つ二つと取れていき、めでたく全員が治りました。
その後誰言うことなしにこの大岩を「いぼ石」と言うようになり、現在まで語り継がれています。
東海環状自動車道貫通と同時に、矢並町ダラバチ山(下本城址跡地横)よりこの地に移転されました。
平成17年3月

「いぼ石」は大きな石なので、移動させるため数個に分割しており、再びこの場所で合体させています。
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いぼ石は大小二つの石が並んでいて、大きな石の上には岩の窪みがあり、雨上がりでしたので雨水がたっぷり溜まっていました。
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昔の方はこの水を「いぼ(疣)」につけたものと思います。

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この石を「いぼ神様」と信じて真剣にいぼとり祈願をしたのでしょう。

高速道路の工事で邪魔になったからといって処分せずに、こうして大切に移動して保存させるという、地元の矢並町で昔から語る継がれる伝説の「いぼ石」を大切にする心がうかがえます。


豊田市西山公園の日本庭園の奥に、天皇皇后両陛下が豊田市に立ち寄られたことを記念した碑がありました。
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中央に「天皇皇后両陛下行幸啓記念碑」左下に「豊田市長  西山 孝」と刻まれています。
行幸啓(ぎょうこうけい)とは天皇皇后両陛下が一緒に外出されることを言います。

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なぜ、西山公園にこの記念碑があるのかは、記念碑の裏面に刻まれた説明文で凡そわかりました。
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裏面に書かれている文章は・・・
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天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ
第三十回全国植樹祭が猿投山麓の
県有林で全国から約二万人の緑化関係者
出席のもとに盛大に行われた
両陛下は五月二十七日国鉄岡多線新豊田駅
にお着きになり駅前広場で市民多数の
心からなる歓迎を受けられた
この記念碑はその時のお立ち台である
昭和五十四年五月二十七日

今から40年前の昭和54年(1979年)、愛知県西加茂郡藤岡町(現在の豊田市)で開催された第30回の全国植樹祭の時に、天皇皇后両陛下が豊田市に立ち寄られたことを記念した碑でした。

全国植樹祭は、豊かな国土の基盤である森林・緑に対する国民の理解を深めるために、公益社団法人国土緑化推進機構と都道府県の共催により開催する、国土緑化運動の中心的行事です。
全国植樹祭は、昭和25年に「第1回植樹行事並びに国土緑化大会(第21回大会からは「全国植樹祭」が正式名称)」として山梨県甲府市で開催されて以来、各都道府県において毎年春季に開催されています。
これまでの大会では、天皇皇后両陛下の御臨席を賜るとともに、県内外から多くの参加者を迎え、式典行事や記念植樹が行われています。

愛知県では昭和54年5月27日、西加茂郡藤岡町(現在の豊田市)にて、天皇皇后両陛下をお迎えし、「緑で結ぼう山村と都市」を大会テーマに、第30回全国植樹祭を開催しました。
この大会では、天皇陛下がヒノキを皇后陛下がハナノキをお手植えになるとともに、南設楽郡鳳来町(現在の新城市)にて、スギとヒノキの種子をお手播きになりました。
また、約2万人の参加者により、ツブラジイ、シラカシ、アラカシ等の記念植樹が行われました。

現在、豊田市藤岡地区の愛知県昭和の森に、この時の天皇皇后両陛下のお手植えの樹木などが育っています。
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愛知県が立てた説明板です。
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大きく育ったお手植えの樹木です。
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昭和天皇と香淳皇后がお手植えされている様子がわかるパネルもありました。
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昭和天皇陛下お手植えの樹(ひのき)です。
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香淳皇后陛下お手植えの樹(はなのき)です。
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ちなみに、今年(2018年)の全国植樹祭は6月10日に福島県で行なわれており、次回の会場が愛知県ということで大村知事がバトンタッチされている光景をテレビで見ていました。

来年の「第70回 全国植樹祭あいち2019」は「木に託す もり・まち・人の あす・未来」を大会テーマに、2019年春季(5月・6月)に愛知県森林公園で開催を予定しています。

この年の4月に天皇が退位され、5月から新しい年号になることから、注目される全国植樹祭になると思われます。

6月2日(土)、名古屋市緑区有松町の旧東海道の町並みで開催された有松絞りまつりに出かけてきました。
有松絞りまつりで賑わう町並みから西へ少し外れた所に、旧東海道の有松一里塚がありました。
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一里塚の頭上を、名古屋第二環状自動車道(名二環)が走っています。
一里塚の前には、石に刻まれた説明板がありました。
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一里塚は、慶長9年(1604年)、幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を基点に、道程一里(約4㎞)ごとに道の両側に5間四方ほど(約9.1m)の塚を築き、榎(えのき)などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。
この辺りに、江戸から87里を示す一里塚がありましたが、大正13年、払い下げられ民地となり、無くなりました。しかし、歴史ある有松の地の発展を願う地元の強い熱意により、平成24年、当地に復元されました。
と書かれています。
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復元されてから6年が過ぎましたが、植えられた樹は元気に育っています。
有松の一里塚の一つ江戸よりに阿野の一里塚があり、京よりに行くと笠寺の一里塚が現存しています。
有松一里塚から少し西へ進むと旧東海道の鳴海宿に入ります。


豊田市足助町を通る旧飯田街道は、江戸時代には信州の善光寺へつながる伊那(伊奈)街道と呼ばれ、明治以降には呼び名を変えて飯田街道と呼ばれるようになった街道で、江戸時代の五街道の一つの中山道の脇往還として庶民の生活にとって重要な道でした。

この飯田街道は三河湾周辺で採れた塩や海の産物を信州へ運び、帰りには信州の山の産物を持ち帰って、尾張や三河方面に送り出しており、塩の道ともいわれています。

陸路での運搬には馬が使われていて、塩の道を中馬街道とも呼ばれています。

旧飯田街道の足助宿の入り口に、大きな馬頭観音が祀られた祠があります。
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その横に、足助町文化財保護会が立てた説明板がありました。
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馬頭観音の横には、荷物を運んでいた馬を休ませ、水を飲ませる大きな水飲み場がありました。
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水桶の石の正面に右から「午馬攝待水」と刻まれています。
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左端に薄く「施主 二本松 神谷藤兵衛」とも読み取れる文字が刻まれています。
その水桶の中には、今でも街道脇の斜面の隙間から湧き水が流れ落ちていました。

馬車組合の人たちによって建てられた三面八臂(顔が3面で腕が8本)の大きな馬頭観音座像です。
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大きな馬頭観音の周りには小さな馬頭観音が並んでいます。
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近くに大きな手書きの説明板がありました。
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何が書かれているのか読んでみますと・・・

観音様は女性的な美しい表情をしているのが常ですが、馬頭観音だけは怒りの表情をしています。
怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し災難を取り除くとされております。
無病息災、動物救済、厄除け、旅行安全のご利益があるとされ、特に午年生まれの人にご利益があります。
名古屋・岡崎から入る古い道は「中馬街道・塩の道」といわれ、足助宿新町の手前に馬頭観音・不動明王・大日如来など数多くの石仏が祭られています。
足助の馬頭観音は大正の初めごろ巴川馬車組合の人々が建立したといわれております。
午馬摂待水と書いてある水槽に流れ込む水は獣沢の水と呼ばれる水で、ここで馬に水を飲ませて休み、この先の旅の安全をお祈りしたのでしょう。
隣にある石碑は松尾芭蕉の句碑で1867年に足助の俳人板倉塞馬が中心になって建立したものです。
何て書いてあるのか?
馬をさへ ながむる雪の 朝(あした)かな  はせを
”はせを”とは、昔の読みで芭蕉のことです。
「馬でさへも、ついつい見入ってしまう程、雪がきれいな朝ですね」
と言うことを言っています。

と、説明がされています。

後半の説明にあった松尾芭蕉の句碑が岩の上にありました。DSCN0777
芭蕉の句が刻まれた句碑です。
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足助の町はずれにあるので、古い町並みを観光に来られた人にはなかなか見てもらえない馬頭観音と芭蕉の句碑です。
足助宿の旧飯田街道はこの馬頭観音の場所から足助川に架かる落合橋を渡って足助の町に入って行きます。
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足助の町並みの地図です。
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の写真の正面に飯盛山があり、右から流れる川が巴川で、左から流れる足助川と合流します。
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足助川に架かる落合橋です。
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川を渡って振り返った落合橋です。
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そして、落合橋から足助の町並みに入って行きます。
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江戸時代の町並みの面影が残る住居が残っています。
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この道が、旧飯田街道といわれている道になります。
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この足助の町並みの建造物群は、平成26年(2011年)6月に愛知県では初めての「国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」に選定され、多くの観光客が訪れる貴重な町並みの景観になっています。

豊田市藤岡飯野町に、江戸時代中期の住宅を移築復元した愛知県の指定有形文化財の「旧山内家住宅」があります。
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この旧山内家住宅は、旧藤岡町大字木瀬に所在した山内家の住宅を移築したものです。
入母屋造の平屋建で、屋根は茅葺とし、内部は間仕切りのない大きな1室となっています。
小規模ですが改造も少なく、江戸時代中期の庶民層の住居を知る上で、貴重な事例となっている建造物です。

国道419号線の藤岡飯野町の交差点のすぐ近くの小高い丘の上にあります。

建物の前にある説明板には下のような説明が書かれています。
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愛知県指定有形文化財(昭和54年12月26日指定)
    旧山内家住宅
建造年代は十八世紀前半の1730年頃といわれています。
御作の磨崖仏と同年代(吉宗の時代)で西三河地方(東・西加茂郡)における庶民住居形式の代表的民家です。
広間三間取形式前の広間の一室形で、古代のたて穴住居形式の名残りを、上屋・下屋構成に残していて、構造は鳥居形式の基本系を示す架構造となっています。
このような民家は心のふる里であり、文字のない歴史の書物と言われ、先祖の生活を知る上で参考となる大切な文化財です。

移築保存  藤岡村大字木瀬旧山内保宅でしたがし、新住宅建設のため藤岡村が資料館(古民家)として保存するため解体移築復元したものである。
藤岡観光協会

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正面にある玄関(大戸)横にも説明板がありました。
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豊田市教育委員会の説明板です。
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下のような説明が書かれています。

古民家
1、形式 鳥居建(200年)
1、
種別 農 家(母屋)
1、規模 66.2平方メートル
この家は昭和46年に移築復元によるもので、三河地方で、一室型の平面をもち鳥居建形式となった小型の農家である。
県下で現存する鳥居建形式での最古の形式をもつものであって、単純な架構に土間と板張りによる広間形式をもつものである。
一般庶民の農家形式として代表しうる民家です。

豊田市教育委員会  

横から見たものです。   
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茅葺はしっかりしていて、まだ綺麗な状態です。
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入口は施錠されており勝手には中には入れませんが、近くにある藤岡民俗資料館に連絡すれば10分ほどで来てくれて見学が出来ます。(但し、月曜休館)

藤岡民俗資料館を訪ねたら、館内に愛知県教育委員会が発行した旧山内家住宅の「文化財指定書」がありました。
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旧山内家住宅は豊田市に2つしかない貴重な県指定有形文化財です。


豊田市郷土資料館では、平安時代中期の十世紀末に造られたとされる、豊田市指定文化財の「木造千手観音立像」が、4月10日 (火) から4月22日 (日) までの短い期間限定で特別公開されています。(※月曜は休館日)
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豊田市郷土資料館の外壁に掲示された企画展の案内看板です。
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入場無料で貴重な千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)を見ることが出来ます。

この観音立像は豊田市猿投町の猿投神社にある山中観音堂の本尊秘仏として安置されていたものですが、傷みや汚れが目立っていたため、2年前の平成28年(2016年)から修復していたものです。
山中観音堂の木造千手観音立像は、高さ1. 675mと大人の背丈と同じくらいの大きさです。
郷土資料館の展示室では、観音像はガラスケースの中に収められての公開展示です。
撮影禁止になっていますので個人での撮影は出来ません。
下の写真は、新聞社提供の写真をコピーしたものです。
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2年間かけて解体・修復を終えた観音像は、柔らかい表情をたたえています。
修復費用は市からの補助も含めて約440万円だったそうです。

下の写真3枚は、修復前の山中観音堂の木造千手観音立像です。
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以前は目や口に色が付けられていましたが、汚れとともに落として本来の姿に戻したそうです。
千手観音の手は胸の前で合掌し、腹部のやや下では鉢を持っています。
左右に備える各19本の手は正しい配列に付け直され、扇のように大きく広がっています。
それぞれの手には利益や功徳を表す数珠や鏡、斧などを持っています。
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千手観音は「千の手と千の目(手のひらにに目がある)」を持つことから、千手千眼観世音菩薩とも言います。
千には無限という意味があり、無限の力と多様な徳で多くの人を救う仏だと考えられています。
人々に悟りの法を説く「如来(にょらい)」に対し、観音は人々に現世利益の救済を施す存在で、日本では奈良時代からこの信仰が盛んになりました。
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千手といっても実際に千本の手を持つものではなく、合掌する2本の手の他に40の手を加えた42手で造られてことが一般的な千手観音です。
仏教では、40本の手はそれぞれ三界二十五有(すべての世界を25種類に分ける考え)を救うとされてることから40✕25=1000となり、その手には様々な法力や徳を示す持物(仏像が手にしているもの)を持っています。

特別公開を終わると、観音像は猿投神社の山中観音堂に戻り、市民の目に触れる機会は無くなるそうです。
山中観音堂は、猿投神社に鬼門除けの寺として平安時代に創建された御堂です。
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神社境内の外に立てられていた故なのか、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)でも取り壊されず現在に至っています。
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修復される前の木造千手観音立像は、このお堂の中に安置されていました。

豊田市の文化財課の方の話では、次回の公開予定は無いそうなので、ぜひこの機会を逃がさないで見てほしいということです。

飯田街道で豊田市石野地区の力石町から国道153号線を足助町へ向かって行く途中、豊田市野口町に入ると、国道わきに「しゃくやく街道」と「しゃくやく姫の塚」と書かれた案内板がありました。
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どんな所か気になったので、近くの空き地に車を停めて、しゃくやく街道に向かいました。
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国道153号線と並行している細い道が「ふれあいの道しゃくやく街道」です。
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戦国時代の伝説の地「しゃくやく姫の塚」と書かれています。
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この看板の近くに、屋根が着いた説明板が建てられていました。
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保存会の人が建てた説明板には「しゃくやく姫の塚」について書かれています。
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写真では読み取りにくいところがあると思いますが、こんな文が書かれています。

しゃくやく姫の塚
時は、1570年代、世はまさに戦国時代に入ったころのことである。
足助城の一つに「黍生城」という城があった。 (現在の足助町近岡)  
この城に女の子が生まれ、五月も半ばお城はしゃくやくが咲きみだれていたので、しゃくやく姫と名付けられた。
姫は すくすくと成長し、日に日に美しくなり「きれいなお姫さまだ」と城下の人々の評判になった。
しかし、ある日のこと 甲斐(山梨県)の武田の軍勢が攻めてきた。
城はたちまち猛火につつまれ姫は城を追われて、飯田街道を西へ、この 野口の地まで逃れて来た。
敵の追手はなおも厳しく、女の足ではとてもかなわない。
「もはやこれまで」と畑の中の 井戸に身を投げて最期をとげてしまった。
いつのころか、この井戸は埋められ塚となった。
その後、毎年5月になると この塚にはみごとなしゃくやくが咲き村人たちは姫をいとしんでいる。
しゃくやく塚保存会 小池鉦松
※黍生城は(きびゅうじょう)と読みます

説明板の前には、井戸の跡と思われる場所が有り、しゃくやく姫の塚と刻まれた丸い石が置かれています。
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埋められた井戸の跡からは「しゃくやく」花の芽が出ていました。
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戦いに敗れた小藩の姫を心有る村人たちが、ひっそり葬り、長く記憶に留めたいとする、やさしい心の感じ取れる伝説です。

しゃくやく(芍薬)の花が咲く頃の5月第4日曜日には、地元の人たちで「しゃくやくまつり」が行なわれているそうです。
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しゃくやく姫の塚のしゃくやく(芍薬)です。
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牡丹の花に似た、こんな花が咲きます。
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また日を改めて、5月の第4日曜日のしゃくやくまつりの時に訪ねてみようと思っています。

豊田市内を通る旧飯田街道のルートで、明治時代の中頃、越戸村上井畑から矢作川を渡るために架けられた平戸橋を渡って、平井村古鼡(ふっそ)に入った街道の分岐点に立てられていたと思われる道標(みちしるべ)を見つけました。
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道標の立てられている場所は、扶桑町区民会館前です。
この場所は道路の分岐点ではないので、もう少し別の所に有ったものをここへ移してきたものと思われます。
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石柱に刻まれた文字は、「なこや」と「善光寺道」と読み取れます。
この道標で旧飯田街道の尾張名古屋と信州長野の善光寺へ向かう方向を教えています。
もう一面にも文字が刻まれています。
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「おかさき」と書かれていると思いますが、最初の文字が「お」ではありません。
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歴史を学んでいる友人から、この最初の文字は、変体仮名で「お」の文字を、漢字の「於」から変体した文字ということを教えてもらいました。
素直に「お」と書けばいいのに、こういった文字を使って書くのには、何か意味があったんでしょうか?
この道は、この先、坂を上って勘八山の南のすそ野を抜けて、豊田市力石町から続く中金町の旧飯田街道(現在の国道153号線)へつながって、足助方面に向かいます。


豊田市小坂本町にある豊田産業文化センターの駐車場の横に、国の登録有形文化財の建造物「喜楽亭(きらくてい)」があります。
2月28日(水)に、訪ねました。
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喜楽亭は、大正時代末期から昭和初期に挙母の町中(現在の豊田市神明町)に建てられた、大正の町屋建築を今に伝える、和風建築の料理旅館でした。
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昭和42年に廃業後、住居として使用していたものを昭和57年、改築にあたって所有者より豊田市に寄贈され、翌年の昭和58年(1983年)に現在地に移築されたものです。
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喜楽亭は、近年の都市化により、急速に姿を消しつつある下町の大規模な和風建築を今に伝えていることから、平成25年(2013年)に国の登録有形文化財に登録されました。
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玄関には内裏雛が飾られていました。
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内裏雛の後ろの障子には三階菱の紋があります。
三階菱でも中央が大きい菱のものを松皮菱と呼び、上下に更に小さな菱を付けたデザインで、その形状が松の外皮に似ていることに由来するそうで、日本特有の紋様とされています。

玄関の横の部屋です。料理旅館の帳場と電話室になっていました。
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帳場に宿泊料金表がありました。
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いつの時代のものか分かりませんが、宿泊料金が20円、税金が8円と奉仕料が4円で総計32円也となっており、其ノ他 別料理 御注文に応じますと書かれています。
宿泊税が宿泊料金の40%も取られていたとは驚きです。

玄関からの廊下の突き当りに大きな鏡が取り付けられていました。
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鏡の上の方には「優等 銘酒」の黄色の文字と、中央に「明君」の商標マークがあり、下の方には白色で「御料理  喜楽亭」の文字が右から読むように書かれています。
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ちなみに銘酒「明君」は、大正12年創業の京都市伏見区にある松山酒造(株)の商標で、月桂冠グループの酒蔵です。

廊下だった場所には畳が敷かれ、窓の外に中庭がありました。
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和室の床の間には、縁起の良い「松・竹・梅」が材料として使われているそうです。
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しゃれた手すりの階段で2階へ上がります。
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喜楽亭では3月8日(木)まで、ひな飾りが展示されていて、
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階段を上がった2階の和室には見事な段飾りが並んでいました。
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資料館の中の飾り付けじゃなくて、昭和初期の建物の和室に飾られており、風情があります。
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御殿飾りで、されに七段の段飾りです。
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京風の15人が並ぶ超豪華版です。
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ひな祭りの蒸し菓子の「おこしもん」も添えられています。

床の間の琵琶棚にも可愛い人形が飾られていました。
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このあと、部屋を出て、庭も見せてもらいました。
表の庭園から見た喜楽亭です。
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2階には窓がほとんどありませんが、8帖の和室が3室並んでいて、この面には床の間がある間取りになっているためです。
庭の真ん中に川が流れていて、池もありました。
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苔が庭全体に植えられた和風庭園になっています。
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モミジがたくさん植えてあり、秋の紅葉は素晴らしいそうです。
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この時期にはまだ早いアヤメが数輪咲いていました。
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この花は寒咲き菖蒲(あやめ)で1月~3月に咲く品種のものです。

喜楽亭の係員の方の話では、昨年には豊田市をロケ地にして撮影された映画「星めぐりの町」のロケがこの建物の中でも行なわれ、黒土監督が一週間ほど通われたそうです。
震災で家族を失って豊田市に来た政美少年が生活していた部屋は、喜楽亭の2階を使って撮影されていたということです。

豊田市内を通る旧飯田街道は、矢作川に橋が架かる以前の明治時代初期までは、豊田市枝下町の渡船場で舟を使って渡っていた時代がありました。
枝下の渡しから先、対岸の石野町や力石町へ抜けて足助の町へ行くルートを訪ねようと、旧飯田街道の資料が無いか石野交流館に立ち寄ってみました。
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受付で、石野の自然と歴史探訪「石野めぐりマップ」というパンフレットを受け取りました。
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5つのウオーキングコースが書かれている中に、飯田街道コースというのが有りましたが、中金町から野口町・中切町を歩くルートになっていて、石野町や力石町の部分についての説明の資料は有りませんでした。
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現在の国道153号線沿いにある神社や寺院の紹介がありましたが、旧飯田街道に残る史跡は地図に紹介されていません。
そこで、枝下町の案内板にあった地図を参考にしました。
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赤色の線であらわされた旧飯田街道は、川を渡ってから力石峠を越えて力石から足助に向かっています。

枝下町(旧西枝下)から両枝橋を渡って石野町(旧東枝下)に入り、川沿いに少し下流に来たところから、力石峠に向かって坂道を登って行くと、村社八柱神社がありました。
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神社の前のゆるやかな坂道をさらに登って行きます。
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坂道を上り詰めた所に石野地域バスのバス停がありました。
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力石峠は、三河広瀬から勘八への道と、石野町から力石町への道の四差路になっていて、その交差点の隅に地蔵堂がありました。
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お地蔵さんには赤い前掛けが掛けられており、享保五年と刻まれた文字が見えます。
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享保5年(1720年)といえば、江戸時代8代将軍徳川吉宗の頃のもので、今からおよそ300年前になります。
このお地蔵さんは、力石峠を通って、飯田街道を行き交う旅人たちの無事を願っていたことでしょう。

旧飯田街道は力石峠から細い道をゆっくりと下って行きます。
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そして、猿投グリーンロードの力石インターの近くの国道153号線に出てきました。
ここから足助までの旧飯田街道は国道とほとんど重なっているようです。


豊田市枝下町の旧飯田街道を訪ねていたら、枝下駅跡の近くの枝下町公民館の駐車場に「わくわく事業」で立てられた案内板が有ったので近づいて見ると、それは枝下用水の説明板でした。
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表面には「旧枝下用水取水口(第一水門)」と「偉大なかんがい事業の足跡」と書かれています。
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説明文には・・・
この取水口は、矢作川から水を取り入れる重要な場所で「枝下用水」の名前の由来となっています。
現在は、取水口の土台・水路の石垣・中島(下図の中州)との間に築かれた石堤があり、さらには下流約700mに「第二樋門」などの遺構があります。
各遺構には一定の水量を取り入れる工夫がなされ、特に「第二樋門」の役割は洪水対策上主要な場所でもありました。
 ※測量開始・・・・・明治10年(1877)
           明治23年 幹線部分と東用水が完成
           明治25年 中用水が完成
           明治27年 西用水が完成
 ※越戸ダム完成・・・昭和4年(1929)
           西枝下からの取水口は越戸ダムに移る
(右半分の説明は省略)

そして裏面には「枝下用水かんがい区域」の絵図がありました。
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かんがい区域は、猿投・挙母・上郷・高岡地域にわたり、末端は隣接する安城市・知立市・刈谷市近辺にまで至っています。
と書かれていて、主要施設等の場所も書かれています。
表面側の着工当時のイラストを拡大しました。
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取水口へ矢作川の水を取り込む施設の様子が分かりやすく書かれています。
現在地のすぐ近くに、枝下用水の取水口が有るようなので行ってみました。
名鉄三河線の廃線の線路を少し行ったところに『枝下用水原点取水口「第1水門」入口』と書かれた白いペンキで塗られた杭が立っていました。
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杭の場所からすぐ下に矢作川の水面が見えています。
足元に気を付けながら川岸へ近づくと、用水路の石垣と思われる部分が水面から顔を出して残っていました。
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ここが明治20年頃に工事が行なわれていた枝下用水の取水口の跡です。
取水口から遠くに見えるのが矢作川の中洲の中島です。
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水面に遺構の石堤が所々に顔を出しています。
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水位が下がればもっとたくさん見られるようです。
ここから700m下流に第二樋門と呼ばれる遺構も残っているということなので、廃線になっている線路の上を歩いて行きました。
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線路の両側には竹林が茂っています。
およそ10分ほど歩いて到着した「第二樋門入口」の案内の杭です。
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ここから 0.4キロと書かれています。
ゆるやかに下り坂になっている竹林の中を進んで行きます。
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迷わないように所々に竹に巻かれた目印が有りました。
川が近づいた感じがしたところに、最後の難関の竹を並べただけの手づくりの橋です。
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竹林から視界が広がり、明治時代に造られた枝下用水の遺構が姿が現れました。
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用水の樋門がある石垣です。
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石垣の上に昇って、反対側を覗いてみると、水門の跡がありました。
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この水門(第二樋門)で、取水口から通水された枝下用水を取り入れたり、堰き止めて排水を行ない、ここから流れる用水の水位を調節する施設です。
石垣の中に「第二樋門」の銘板を何とか見ることができました。
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樋門をくぐった用水はここからさらに矢作川の右岸に沿って下流に流れていくようになっています。
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第二樋門から見た矢作川の上流方面です。
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第二樋門のある位置は地図で見ると枝下町と御船町の境付近になります。
この辺りの矢作川は、下流に築かれた越戸ダムで貯められたダム湖で川の水位が高くなっているため、川岸に沿って造られている用水の堤防は見えませんが、水位が下がった時には水面下の堤防の跡が見えてくるようです。
インターネットのGoogleマップの航空写真でこの場所を見ると、矢作川の右岸に沿うように枝下用水の堤防の一部が水面から出ているので良く分かります。

このブログの最初の写真の枝下用水の説明板の右半分の部分を拡大しました。
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ここにも書かれているように、地形上の難工事に加え、たび重なる洪水や災害により中断、(中略)
その中で西澤眞蔵は私財を投じて難工事を推進し、多大な貢献をした。とあります。
まさに、偉大なかんがい事業だった、明治時代に行なわれた枝下用水の工事でした。

名鉄三河線の猿投-西中金駅間の廃止により廃駅になったのは、三河御船駅・枝下駅・三河広瀬駅・西中金駅の4つの駅ですが、今までのブログで三河御船駅(2018.2.2)・三河広瀬駅(2017.12.12)・西中金駅(2017.11.17)の三駅を紹介してきました。

今回は、残りの枝下駅について紹介します。
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漢字で「枝下」と書いて「しだれ」と読みます。
地名は読み方が難しい中で、枝下も難読駅の一つのようです。
歴史をたどると、この地を古くは「志多利しだり郷」と呼んでいたという古文書の記録があるようです。
その後、参州加茂郡枝下(しだり)村という地名になり、文字が変わっていますが、その由来は明らかではありません。
枝下町になる以前は、矢作川を挟んで左岸側の東枝下村と、右岸側の西枝下村という、2つの枝下村がありました。
枝下の呼び方が「しだり」から「しだれ」に変わったのは、名鉄の駅が出来た時という話を聞いています。
そんな中でも、枝下町自治区が年4回発行の自治区だよりの名称は「かわら版しだり」となっていて、「しだり」の名が残されています。
現在では豊田市内の町名の見直しで、西枝下村が枝下町になり、東枝下村は石野町になっています。
そのなごりというか、矢作川に架かった東西の枝下村をつなぐ橋を両枝橋と呼んでいます。
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町の名前は変わっても、両枝下の絆と思い出が橋の名前に込められています。

昭和2年(1927年)8月に開設された枝下駅は、平成16年(2004年)3月末に廃線になって以後も線路やプラットホームは現存していますが、駅舎は昭和42年(1967年)頃に解体されたので今は残されていません。
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三河広瀬駅・西中金駅は、駅舎とプラットホームが国の有形文化財への登録されましたが、枝下駅跡は駅舎が無いのでプラットホームだけでは登録されていませんでした。

廃駅になった後の枝下駅前は、平成19年に豊田市のわくわく事業で枝下町自治区が整備を開始され、わくわく広場になっています。
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残念ながら時計は故障中でしたが、広場の片隅には枝下駅の名前にちなんで、枝垂れ桜が植えられていて、大きく育っていました。
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春には、きれいな枝垂れ桜が見られるようです。
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上の写真が駅から三河御船・猿投方面を見たところです。
そして、下の写真が三河広瀬方面です。
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駅のすぐ近くに矢作川を渡るグリーンロードの高架橋が架かっています。
線路と矢作川の間が旧飯田街道になっていて、その場所に「三河線枝下駅と木節粘土」の説明板がありました。
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左側の写真に現役当時の枝下駅の駅舎が写っていました。
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またこの駅が開所した当初は、駅の近くで取れる、陶磁器の材料に適した木節(きぶし)粘土の需要が高まり、大量に輸送されるために貨物列車の引き込み線がありました。
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けれども、車社会の発展で昭和59年(1984年)1月には貨物列車が廃止され引き込み線も撤去されています。

県道11号線を走る機会があったら、枝下駅跡にも立ち寄ってみてはいかがですか。

豊田市枝下町にある旧飯田街道で、矢作川を渡るための渡船場跡です。
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三河線の枝下駅跡のわくわく広場にあった旧飯田街道説明用の絵地図を参考に廃線になった線路沿いに矢作川を上流に向かって歩いていきました。
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線路の真ん中には歩きやすいように細かい砂利が敷いてあります。
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しばらく歩いて行くと、川沿いに一艘の舟がありました。
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矢作川に架かる赤い橋(両枝橋)の下流側のすぐ近くに「旧飯田街道 枝下の舟場跡」と書かれた案内板がありました。
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川岸の舟が、いかにもここが渡船場跡だったという景観になっています。
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案内板には、享保5年(1720)操舟と書かれています。
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説明文には・・・
この舟場は、旧飯田街道の主要な道で、唯一舟を利用して通行していた渡船場の跡です。
(中略)
旅人や荷物を背にした馬などが舟で往来した場所であります。
対岸の東枝下(現石野町)へはワイヤーを張ってそこに舟をつなぎ、船頭さんがたくみに舟を操って川を渡りました。
昭和27年その役目を終える
と、書かれています。
左上の絵図を大きくしました。
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川の流れで舟が流されないように操っているようすが良く分かります。
渡し舟の絵の中にあるのと同じように、両枝橋の下に岩が並んでいます。
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この中の大きな岩は「はかり岩」と呼ばれていて、安全な操船水位の目印にした自然の岩で、増水で岩が水没すると川止め(渡船中止)となったそうです。
もう一つ絵にも描かれている「ワイヤー台座」も、草むらの中に見つけました。
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この台座は、対岸に張ったワイヤーを固定するための石製の施設で、ワイヤーに滑車を付け、更にロープで舟につなぎ、舟が流されないように工夫されていたそうです。
台座の近くに小さな古井戸の跡がありました。
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街道を往来する人々や馬の喉をうるおす井戸で、傍らに水天明王が祀られ往時を偲ばせています。
この水天明王の建立は江戸時代の文化11年(1815年)ということです。
井戸の水は水温が一定になっているようで、この寒さの中でもホテイアオイが枯れずに育っていて、近所の人が金魚を入れて楽しんでいるようです。
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渡船場のすぐ近くに常夜灯がありました。
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常夜灯の説明も書かれています。
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その説明には・・・・
建立は文政7年(1824年)で、以前は旧飯田街道の渡船場近くに設置されていたのを、大正年間に移転されたものと伝えられている。
と、書かれています。
枝下町の旧飯田街道の説明板は、わくわく事業で立てられた物のようですが、歴史を楽しむ人たちにはうれしいものです。
このあと、旧飯田街道の矢作川を渡って、石野地区の力石町方面を訪ねてみようと思っています。

旧飯田街道は、名古屋から豊田市足助を通り信州伊那谷に通じる道で、豊田市四郷町から御船町・枝下(しだれ)町を通って行くルートが最も古い街道と言われています。
枝下歴史研究クラブの皆さんが猿投町誌を参考にして発行した「旧飯田街道と路線の変遷」という資料に、絵図で示された飯田街道の4つのルートが書かれた案内板が枝下町の旧飯田街道のおと県道11号線が交差する場所に建てられていました。
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先日(1/29)のブログで豊田市四郷町から御船町を通る旧飯田街道を発信しましたので、今回はその先の枝下町を通る旧飯田街道沿いの史跡などを紹介します。
この案内板の裏側に「旧飯田街道と枝下」という表題で説明がされていました。
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説明の後半部分に・・・
ここの場所から県道を横切って矢作川に通じる旧道は、飯田街道の最も古くからのルートであって、曲がりくねった幅の狭い道は、往古の姿を偲ばせる貴重な街道筋である。
と書かれています。
絵図の案内板の向こうに、県道を横切って下って行く道が旧飯田街道です。
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この近くで車を停める場所をさがして、名鉄三河線の旧枝下駅跡のわくわく広場に行くと、そこにも「枝下町の史跡と旧飯田街道」の絵図が書かれた説明板がありました。
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右上に書かれた旧飯田街道(塩の道)の説明には・・・
尾張名古屋から三河山間部を経て信州飯田へ通じる道、中山道の脇街道として、江戸時代から明治の中頃まで馬の背で塩を運んだ馬方や旅人で大いに賑わいました。
と書かれています。
この絵図の中の御船町から枝下町に入った県道沿いに、馬頭観音と書かれた場所があるので行ってみました。
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県道を縫うように、くにゃくにゃと旧飯田街道が残っています。
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その道の脇に案内板がありました。
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馬頭観音について・・・
旅の安全を祈願するとともに、不慮の事故で命を落とした馬の供養と併せ村人たちの安らぎを願って馬頭観音を建てられた。
と、枝下歴史研究クラブが説明されています。
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街道の松の木の根元に馬頭観音があったという、古い写真が載せられています。
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案内板の近くに、写真の墓石が置かれていました。
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花筒もあり、地元の人で供養されているようです。
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枝下町内の旧飯田街道はこの先、枝下町公民館の横を通り、三河線の枝下駅跡の横を矢作川の川岸に沿って進み、いよいよ枝下の渡船場に向かいます。


猿投台地区コミュニティ会議が発行している史跡名所MAP48景の一つで、ふれあい散策ウォーク柿野街道コースにも入っている、豊田市越戸町東小笹にある石神(いそがみ)大明神を訪ねました。
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名鉄三河線の越戸駅と平戸橋駅のちょうど中間あたりの電車の通り道に近くの細い道路端の斜面にありました。
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石神大明神は、むかしから石神(いそがみ)さんと呼ばれ親しまれ、とても霊験あらたかな神さまとして知られていました。
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猿投台地区コミュニティ会議が立てた案内板の横には、枝下用水⇔旧飯田街道の通り道の表示もあります。
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石神(いそがみ)大明神について詳しく書かれた案内板です。
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暦応3年(1340年)この地に宝隆院というお寺が建てられ、その境内の南端に位置するここに石神さんが祀られていた。
長年、石の祠に祀ってあったものを、山村宗家によって、現在の社殿が建立され、息災延命の祈願所として改修された。
ご神体は、男性のシンボルである男根で、真言密教の教えにも人間・生命の本源は男女の和合と性愛であることが説かれており、その性的な象徴を男性の性器になぞらえているのが、この石神さんである。
と書かれています。
左下の写真の部分を大きく写してみました。
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石の祠の内外に、石で作られたご神体が並んでいる様子が写されていました。
現在この石の祠やご神体は屋外には見られず、社殿の中に鎮座されています。
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社殿の中は、布が掛けられていて、外からはご神体が見えませんでした。
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石神さんは、下の神様として、子供の夜尿症や婦人病などに御利益があるとされ息災延命、子孫繁栄の神として祀られ、今もなお地元の人々からの信仰が続いているということです。

豊田市猿投台交流館でいただいた猿投台ふれあい散策ウォークの柿野街道コースの資料や猿投台史跡名所MAPを参考に、猿投台地区の史跡を訪ねたいと思っています。
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猿投台のふる里の成り立ちには、猿投台地区の東境を矢作川が清々往々と流れており、古代より水辺に人々が集まり集落を形成し、各地に古墳を築きました。と資料には説明されており、越戸町には2つの塚(古墳)が残っています。
猿投台史跡名所MAPの北部の枝下町・西広瀬町の地図と、
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南部の平戸橋町・青木町・花本町・越戸町・荒井町の地図です。
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越戸町にある2つの塚のうちのその1つが、地図の「43番」に書かれている、西小笹にあるキツネ塚(小笹古墳)です。
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フットサル競技のグランドが広がる造成地のすぐ西側にありました。
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昭和のはじめ頃まで一帯は雑木混じりの竹林で、先端の小高い塚の上には黒松の大木が立っており、松の根元に穴がありキツネ(狐)が住んでいたことから、誰いうとはなしに人々はキツネ塚と呼んだそうです。
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猿投台地区コミュニティ会議が立てた説明板には、寛延2年(1749年)の古絵図には、この塚に山の神が鎮座したとあるが、今日では天満宮に合祀されていると書かれています。
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高台にあり、周囲が一望できることから山の神の説もうなづけるとも書かれています。
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この古墳は、おそらく眼下に広がる田畑を開墾した一族の長の墓だと推測されるということです。

もう一つの塚は、地図の「27番」に書かれている、東小笹にある越戸塚(小笹古墳)で、フットサルのグランドの北側にあります。
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墓地の片隅に土が盛られた場所があり、その前に猿投台地区コミュニティ会議が立てた説明板がありました。
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この塚は宝隆院初代住職の鈴木政貞が埋葬されている古跡で、20年間僧侶としての厳しい修行を重ね、暦応3年(1340年)にこの地に移り、真言宗覚王山心王寺(のちの宝隆院)を建立して、初代住職となった。と書かれています。
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また、鈴木政貞については、三河鈴木氏の祖といわれる鈴木重善(善阿弥ともいう)の子、鈴木政則の嫡男として、嘉元2年(1304年)に生まれた人物です。
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矢作川流域右岸のこの地が、古くから人々の営みの地だったという歴史のあることを、これらの古墳がものがたっています。


2月3日(土)は節分です。
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節分になるとよく聞く言葉で「恵方(えほう)」というのがあります。
恵方って何か?って調べると・・・
方位神の一つである「歳徳神(としとくじん)」は、その一年の福徳をつかさどる神とされています。
この歳徳神がいる方角は全てにおいて大吉とされ、この方角を「恵方(えほう)」と呼びます。
恵方は別名「吉方(きっぽう)」「明の方(あきのかた)」等ともいわれます。
恵方はその年の暦の「十干」によって定まります。
その年の暦と恵方との対応は以下の通り、5年周期・4方位になります。
 甲・己の年(平成36・31):寅と卯の間(「甲」の方…およそ東北東)
 乙・庚の年(平成37・32):申と酉の間(「庚」の方…およそ西南西)
 丙・辛の年(平成33・38):巳と午の間(「丙」の方…およそ南南東、*戊・癸の年に同じ)
 丁・壬の年(平成34・39):亥と子の間(「壬」の方…およそ北北西)
 戊・癸の年(平成30・35):巳と午の間(「丙」の方…およそ南南東、*丙・辛の年に同じ)

愛知県の
尾張地方には「笠寺観音(名古屋市南区)」「甚目寺観音(海部郡甚目寺町)」「荒子観音(名古屋市中川区)」「竜泉寺観音(名古屋市守山区)」という古くより信仰を集めてきた四つのお寺があり、千年以上の歴史の中で、観音様を本尊としてお祀りしてきました。
これら「笠寺・甚目寺・荒子・竜泉寺」の四つの寺院を「尾張四観音(おわりしかんのん)」として、観音様の慈悲をもとめる民衆の信仰を集めました。

尾張の恵方と、尾張四観音の関係については・・・
およそ400年前に、徳川家康公は尾張の国の中心として、名古屋城を築きました。
それ以来、名古屋城を中心としてみた時に、この地域の四方に位置する尾張四観音が尾張を守護する観音様としても、さらに崇敬されるようになりました。
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四観音のうち、その年の恵方に最も近い観音様は「恵方の観音様」として、福を求めて特に多くの参詣者が集まります。
今年(平成30年)の恵方に当たる尾張の観音様は名古屋城から南南東に当たる笠寺観音になります。

ということで、混雑を避けて、一日前の2月2日(金)の午後に、福を求めて笠寺観音に出かけてきました。
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2月3日の節分会の豆まき祈祷の前に、2日の午後8時から前夜祭が行なわれるようです。
笠寺観音の入り口では、名鉄の本笠寺駅方面からどんどんと人が詰めかけています。
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境内では出店が立ち並び、準備を進めている店や、すでに商売を始めている店などがあり、大変な賑わいになっていました。
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恵方の笠寺観音の本堂で一日早い節分のお参りをしてきました。
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縁起物の「福ひいらぎ」や「福豆」などが次から次へと売れていきます。
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境内の中だけでなく、門前にも店が並ぶようです。
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尾張四観音の恵方ということで、節分の日は大変な賑わいになっていることと思います。
久しぶりに訪ねた笠寺観音でした。

豊田市内の旧飯田街道を訪ねている途中で立ち寄った、名鉄三河線の旧三河御船(みかわみふね)駅跡です。
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駅前は御船自治区のふれあい広場になっていました。
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その広場の前を旧飯田街道の道が通っています。
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数本のソメイヨシノ桜が広場の周りに残っており、花壇もありました。
春には桜が楽しめる広場になっています。
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この三河御船駅は、平成16年(2004年)4月の名鉄三河線の猿投駅-西中金駅の営業運転廃止により廃駅になった駅です。
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駅舎は無くて、ホーム1面1線の無人駅で、三河線全線中、最も早く無人化されている駅ですが、かつては豊田市運動公園の最寄り駅で、豊田マラソンなどのイベント開催時には賑わいを見せることもあったということです。
その際は駅員が臨時に出張し、出札業務を行っていました。
ただし、駅舎が無かったので机を持ち込んでの出札業務であったそうです。

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線路には工事用のフェンスが置かれていますが、それが無ければ、線路とプラットホームを見ていると、今にも電車が走ってくるような錯覚をするほどです。
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営業が終了してから十余年が経った今、線路のさびや、プラットホームの屋根が風化した姿を見ると寂しさを感じます。


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廃止される頃の一日の平均乗車人数が60~70人ほどだったということで、車社会による交通手段の移り変わりには勝てなかったようです。
また、ソメイヨシノ桜が咲くころに訪ねてみたいと思っています。

旧飯田街道は、名古屋から豊田市足助を通り信州伊那谷に通じる道で、豊田市四郷町から御船町・枝下町を通って行くルートが最も古い街道と言われています。
枝下歴史研究クラブの皆さんが猿投町誌を参考にして発行した「旧飯田街道と路線の変遷」という資料に、絵図で示された飯田街道の4つのルートが書かれたものがありました。
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上から順に、歴史の古いルートになっています。
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先日(1/20)のブログで豊田市四郷町を通る旧飯田街道を発信しましたので、今回は四郷町から御船町を通る旧飯田街道沿いの史跡などを紹介します。
四郷町山畑の交差点にあった道標から、北に100mほどの所の四郷町天道に秋葉山常夜灯がありました。
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横にある、天道自治区 井郷まちづくりの会が立てた説明板によると、この常夜灯は江戸時代の享和3年(1803年)に建立されたもので、井郷地区5ヶ所にある常夜灯のうちで一番歴史のある物のようです。
常夜灯の台座の石の周りには、ボコボコと驚くほどたくさんの穴が掘られています。
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この穴は「盃状穴(はいじょうけつ)」と呼ばれているもので、各地で神社の手水石や常夜灯などに見られ、江戸時代頃から病気の治癒や子宝を住民たちが、祈願しながら小石でたたいて穴をあけたものとも言われていますが、考古学者の間でも詳しくはよく分かっていないということです。
常夜灯の横には「火の見櫓」があります。
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この火の見櫓は昭和30年に地元有志により立てられたもので数年前に再塗装され、井郷地区唯一の火の見櫓として保存されています。
この場所から井上町と高町の境界の豊田市運動公園の南側を東に進んで行くと、運動公園西の交差点があり、ここから御船町に入ります。
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右手には、平成16年4月に廃線になった名鉄三河線の三河御船駅跡がありました。
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駅跡地前の道をさらに進み、ゆるやかな坂を下ると御船町縄手の県道11号線の交差点の手前、東海環状自動車道の高架の下にある常夜灯の場所に出ました。
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ここの常夜灯には何も説明板がありませんでしたが、井郷交流館でいただいた資料によると・・・
御船常夜灯は、江戸時代末期の安政4年(1857年)に建てられた秋葉山常夜灯で、飯田街道を往来する旅人の夜道の安全と「ここが御船」の印しとなった。
と書かれています。
常夜灯の写真を撮っていると、たまたま通りかかった地元の方が説明をしてくれました。
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常夜灯の場所は東海環状道の下あたりにあったものを、工事の時にこの場所に移動したもので、旧飯田街道も真っすぐだった道が、県道の交差点などが交差して一部が分断してしまったということでした。
常夜灯のすぐ近くの環状自動車道の側道の向こう側の田んぼの中に、御船城跡の石碑がありました。
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豊田市教育委員会が立てた案内板です。
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近くを流れる御船川を外堀として利用した平城だったそうです。
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御船城は、室町時代の文明2年(1470年)ごろに築城し、戦国時代の永禄7年(1564年)に落城しています。
旧飯田街道は、この御船城跡のすぐ南側を東の方角に枝下町の方向に進んで行きます。
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ガードレールは御船川に架かる橋です。
橋を渡って旧道を進んで行き、竹林を抜けると旧飯田街道が無くなり、県道11号線に出ます。
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しばらく県道を進んで行くと、いよいよ旧飯田街道は枝下町に入ります。



江戸時代に三河の碧海郡寿恵野村を起点に挙母村から寺部・荒井・花本を通り、亀首より藤岡を縦断し、さらに北進して美濃の土岐郡柿野に至る道を柿野街道と呼んでいます。
豊田市寺部町の柿野街道について先日(1/18)のブログで紹介しましたが、今回は寺部町から矢作川を渡った後の豊田市花本町を通る柿野街道について紹介します。
柿野街道についての情報が得られないかと、豊田市猿投台交流館を訪ねました。
受付で柿野街道について尋ねると、「ふれあい散策ウォーク 柿野街道コース」の資料をいただくことができました。
資料の一部分です。
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コースは猿投台交流館から柿野街道を南へ進み、越戸駅周辺の遺跡を見ながら北へ向きを変えて、平戸橋駅前を通り交流館へ戻る、全長5キロコースになっていました。
地図をたよりに柿野街道散策コースを進んで行くと、花本町の南端にある柿野街道の案内板を見つけました。
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猿投台地区コミュニティ会議で立てられた大きな案内板です。
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説明文の中に、街道沿いの栄えた花本は、明治期には行政・教育・商工業の中心地であり、「小江戸」とも呼ばれた。
と書かれています。


案内板の右半分の花本村絵図です。
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南端には大商店「やまさん」があり、麹屋・油屋・醤油屋・酒屋・質屋・よろず屋・紺屋・宿屋などが軒を連ね、北端には肥料問屋があったと書かれています。
この「やまさん」の建物の3階を仮校舎として明治39年(1906年)5月に生徒数29名で、現在の県立猿投農林高校の前身である群立農学校が創立されたそうです。
その場所の石垣が今も残っています。
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花本から荒井方面へ、今も残っている柿野街道です。
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先ほどの位置から北の方角の街道沿いには、大きな屋敷の塀が続いています。

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北の方向の青基調に続く柿野街道です。
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豊田市四郷町や井上町などのある、井郷地区の井郷交流館で入手した史跡・名所案内の資料です。
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この中にも古地図があり、豊田市内方面から藤岡方面に南北に走る②の飯野(柿野)街道が書かれていました。
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花本町の柿野街道は、絵図に書かれている町並みの先の光明寺や、
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八幡神社の横を通って北に進み、
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藤岡から岐阜県の美濃の柿野に向かっています。

豊田市扶桑町の矢作川河畔にある「古鼡(ふっそ)水辺公園」を散策していたら、河原の竹林の前に何かの案内板が立てられているのを見つけました。
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近づいて見ると「旧平戸橋」と書かれています。
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この場所の対岸は、先週のブログ(1/17)で紹介した平戸橋町の「旧平戸橋架橋地」の石碑が有った場所になります。
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案内板には、明治15年のこの場所が平井村で、対岸の越戸村との間に153mの木橋が架けられ、平井村の「平」と越戸村の「戸」をとって平戸橋と名付けたと書かれています。
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その橋は洪水で2度も流されており、愛知県が13年後の明治28年3月に、新平戸橋を現在の場所に完成させたとも書かれています。
説明文の下に平戸橋の図があります。
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橋の向こうには猿投山らしき山が書かれています。
この木橋の旧平戸橋の完成で、旧飯田街道は矢作川の上流にあった枝下(しだれ)村の渡し舟や、御船村大釜の大釜橋へのルートから越戸村の平戸橋へ変わりました。


江戸時代に人々が行き来した街道の中の一つ、尾張名古屋から信濃の飯田を結ぶ旧飯田街道には諸説があり、歴史的にも時代と共に経路が変わって複数のルートが存在しています。
現在では、国道153号線を飯田街道と呼ぶことが多いですが、江戸時代から明治期では、名古屋市から豊田市を経由して長野県に入る旧飯田街道は、豊田市内に流れる矢作川を越えるための手段の変化で、街道の経路がいろいろと変わっていたようです。
そのことが説明された案内板が、矢作川に近い豊田市平戸橋町の名鉄三河線の平戸橋駅近くの旧飯田街道に有りました。
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猿投台地区コミュニティ会議で立てた柿野街道散策コースの案内板の一つです。
飯田街道の変遷の部分拡大しますと、矢作川を越えるための方法の変化で、4つのルートの変遷が書かれていました。
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猿投台地区の御船と越戸で、4つに分かれる前の飯田街道は豊田市四郷町のある井郷(いさと)地区になるので、まずは四郷町の旧飯田街道の痕跡を探しに出かけてみました。
四郷町下古屋にある白壁に黒い板張りの建物は、江戸時代末期創業の酒蔵の浦野酒造です。
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この建物の南側に沿うように未舗装の細い道があり、井郷地区コミュニティ会議が立てた旧飯田街道(旧中馬道)と書かれた表示板が掲げられています。
散策する人の姿を見ると、歴史を感じる光景が有りました。
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酒蔵の建物の角を曲がって、旧飯田街道が続いていきます。
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ゆるやかなカーブを曲がると常夜灯が有りました。
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飯田街道を通る人の安全を見守っていたものだったと思われます。
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この道を真っすぐに進むと、観音堂と弘法さんと書かれた案内板がありました。
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たくさんの石仏が並べられた前を通り、ゆるやかな坂道を登って行います。
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坂を上り詰めた所の四郷町山畑の交差点の角に石柱の道標が有りました。
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高さがおよそ1.5mの角柱の3つの面に文字が刻まれています。
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歴史を勉強している知人の話では、上の写真の文字は「左 せんくわうし道」と書かれているというこで、「わ」のもじは「王」のくずしで、濁点は使わないそうです。
現代文で書くなら「左 ぜんこうじ道」となります。
石柱の横に井郷(いさと)まちづくりの会で作られた案内板が有りました。DSCN9723

この道標(みちしるべ)は江戸時代末期の嘉永3年(1850年)に立てられたもので、三面に刻まれている文字は、今の漢字に直すと「右・伊勢宮名古屋道」「左・善光寺道」「左・岡崎道」と判読されると説明されています。
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この先、東北東の方向に進んで行き御船へつながるルートが、飯田街道の初代と二代目の飯田街道で、東南東の方向に進んで行き越戸へつながるルートが三代目と四代目の飯田街道になります。
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大きな川を渡るのに舟から橋になり、その橋が流されて場所が変わり、また交通手段が人馬から自動車に変わるなど、どんどん新しい道路が出来て古い街道が消え去ってしまうことが多い中で、江戸時代からの古道が残っている数少ない四郷町の飯田街道です。

豊田市寺部町は、戦国時代に徳川家康に仕え、槍の名手として徳川十六神将の一人といわれた戦国武将の渡辺半蔵守綱(もりつな)のゆかりの地です。
寺部町内にある「ふれあい広場」には、寺部・高橋まちづくり協議会が立てた「寺部・高橋ふるさとマップ 槍の半蔵(渡辺守綱)の城下町」と書かれた案内板が掲げられています。
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このマップの中に、寺部町を縦断する古道「柿野街道」が緑色の線で描かれ紹介されています。
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南は豊田市内の御立の方から続いていて、蓮台寺の横を通って、寺部八幡宮や守綱寺(しゅこうじ)の横を北上しています。
まずは、蓮台寺へ行ってみました。
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お寺の入り口の横に「善光寺街道」の道標と、「寺部の古道」と書かれた「寺部・高橋まちづくり協議会」が平成19年3月に立てた立派な説明板が有りました。
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善光寺街道と柿野街道について書かれています。
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後半部分を書き出すと・・・
また、蓮台寺西の南北の道は、岡崎から美濃の柿野へ通じる柿野街道といわれた。
ここから北へ、八幡宮と守綱寺の西側を抜け、矢作川を渡船で渡り、荒井の兵主神社に上がり、花本・御船・藤岡へ通じて、和紙や陶器の交易路であった。
と説明されています。

下の写真の道が蓮台寺横を通る「柿野街道」です。
お寺の西側一帯は、豊田市の都市整備で寺部地区の工事が行なわれており、県道343号(則定豊田線)の南側で区画整理がされています。
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その区画整理でもこの道は残されて、この部分の柿野街道が無くなってしまうことは無さそうです。
この先の県道を横切って寺部八幡宮へ来ました。
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横断歩道橋の下に道標が立てられています。
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柿野街道の道標18です。
北へ進むと寺部八幡宮の鳥居と郷社八幡社と刻まれた石柱がありました。
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さらに北へ進むと、渡邊家菩提所の守綱寺に突き当たります。
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お寺の入り口の左側に柿野街道の道標19がありました。
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この先は城下町でよく見かける、道が直角に曲がった丁字路になっています。
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左に曲がって20mほどの先の角で、また直角に曲がっており道標20が有りました。
この丁字路を右に曲がると、街道はこのままお寺の横の道を真っすぐに進んで行きます。
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坂を下り、矢作川の河川敷に出た所に最後の道標21が有りました。
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河川敷に作られた農道が真っすぐに矢作川の堤防に向かっていきます。
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最初の蓮台寺の横の説明書きによると、この先矢作川を船で渡って対岸の荒井へ進んで行くことになります。
この矢作川の先の柿野街道は、また今後ゆっくり歩いてみたいと思っています。

先日、工事中の平戸大橋を見に行った時、工事現場よりさらに下流に200~300mの矢作川右岸河川敷にある越戸公園付近の堤防道路に「旧平戸橋架橋地 豊田市」と刻まれた石柱を見つけました。
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明治時代には、この地に最初の平戸橋が架けられていたようです。
右側面に説明文が刻まれています。
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平成3年に建てられた石柱に刻まれた文字を読んでみます。
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旧平戸橋は明治15年この地に架けられた。
当時この地は越戸村対岸は平井村であったため、両村の名称より一文字ずつとって平戸橋と名付けられた。
この橋の開通により、飯田街道の道筋は御船経由から越戸経由へと大きく変わることになった。
しかし、洪水時の二度にわたる流失のため明治25年から31年にかけて現在の波岩の地に新橋の建設が行なわれ、この橋は廃された。
と書かれています。
この場所から矢作川を眺めると、橋が架けられていたと思われる痕跡がうかがえます。
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この飛び石も旧平戸橋の名残のようです。
江戸時代に飯田街道(中馬街道)で矢作川を渡るのには、今の平戸橋よりも上流の枝下の渡しで、渡し舟が活躍していたという歴史が残っています。


豊田市郷土資料館では現在、郷土資料館開館50周年記念の企画展「古い道具と昔のくらし 大唐箕展」が開催されています。
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唐箕(とうみ)は、人力で羽根を回した風の力を利用して穀物を精選する農具で、主に稲作作業で用いられていた道具です。
12月23日(土)には、稲や籾(もみ)を使って唐箕の実演があるということなので、午後から出かけてきました。

郷土資料館の第1展示室の正面には20台を超える唐箕がところ狭しと並べられています。
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そして第2展示室にも、ぎっしりと唐箕が並べられています。
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中日新聞で紹介された情報によると、郷土資料館で所要している豊田市内に残るさまざまな唐箕が全部で50台を一堂に並べたそうです。
郷土資料館によると、唐箕は江戸時代前期の元禄年間(1688∼1704年)に中国から日本に伝わており、明治のころ普及し始め、昭和まで活躍しています。

また、唐箕の横には仕組みがイラストなどで詳しく説明されています。
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大きな箱の外側についた手回しのハンドルで、内部の風車「回転扇」を回して風を送り、軽いわらや、もみなどを飛ばして、実の詰まった穀物と分ける仕組みになっています。

郷土資料館の外の芝生広場では、むかし唐箕などを使っていたと思われる御年配の方の指導で、刈り取って干した稲束から玄米にするまでの、昭和の時代に活躍した農機具を使っての実演が行なわれていました。
まずは足踏み式の脱穀機を使って稲束から稲穂(もみ)を取り出します。
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足踏み式の脱穀機は、リズミカルにペダルを踏んでクランク機構で円筒型の扱き胴を回転させます。
抜き胴には逆V字型の針金が付けられています。
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手の位置に気を付けて稲の束を差し込みます。
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子供も大人も、希望者に体験させてもらいました。
次に、もみを集めて、もみすり(籾摺り)をします。
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木製の臼の構造をしたもみすり機で、下半分が固定していて、上半分を回します。
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上下の重なった部分に、凹凸の歯が並んでいて、その歯の間でもみ殻が剥けて、玄米の状態の米粒が出てきます。
回転させるのに大きな力が要るので、3人~4人掛かりで力を合わせて回します。
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このもみと米粒を集めて、いよいよ唐箕を使って選別します。
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回す速さで選別の状態も変わってしまうことも体験しました。
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選別された米を、最後に網を斜めにした滑り台のような道具で、さらに選別します。
この道具を「とおし」といい、構造によって「千石とおし」とか「万石とおし」と呼ばれています。
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こうした道具を上手に使って、穀物が精選されます。

私の祖父の時代が農家だったので、子供の頃にはこうした道具を実際に使っている姿をじかに見てきたので、大変懐かしい思いで実演を見させてもらいました。
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豊田市郷土資料館の大唐箕展は、入場無料で来年の3月4日(日)まで開催されています。

先日、豊田市近代の産業とくらし発見館(略称:くらし発見館)で開催されている企画展の「今のとよた、昔のとよた」に訪れた時にいただいたパンフレットの中に、あまり知られていない史跡があることを聞きました。
その史跡は豊田市十塚町にあるという「熊野(ゆや)が松 伝承地」です。
下の写真は、企画展のパンフレットの中から切り取ったものです。
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パンフレットの中に載せられていた昭和15年の挙母町の鳥瞰図には「⑧湯屋ヶ松」という文字で書かれている場所です。
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その場所は、絵図の中では ⑥挙母神社や ⑦城址(桜城跡)の南側の方角になっています。
くらし発見館の人の話では「とよたエコフルタウン」と「イオンスタイル豊田」の間にあるということだったので訪ねてみました。
12月20日(水)、エコフルタウンに車を停めさせてもらって、その場所を探しに行くことにしました。
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絵図では路地を入って行くように書かれているので、十塚町内の路地を歩き回りましたが、なかなかその場所が見つかりませんでした。
探すのをあきらめかけて、くらし発見館の人に聞こうと思って、イオンスタイル豊田の北の角の十塚町3丁目の交差点からエコフルタウンの駐車場に戻る途中の道端に、パンフレットの中の写真に載せられているものと同じ標柱を見つけました。
下の写真の左隅にある長さ1メートルほどの太い柱です。
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この場所を探すのに、目安になると聞いていたパブの建物が解体され、更地になっていたので、つい通り過ぎてしまいそうなほどの、小さな標柱でした。
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駐車場の一角に、広さ1㎡ほどの場所に、パイプの柱とチェーンで保護された標柱には、「熊野が松伝承地」と書かれています。
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標柱の近くに松の木は植えられていませんが、標柱の根元の金属板に書かれた案内板がありました。
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熊野(ゆや)が松伝承地
「熊野(ゆや)」は平宗盛(たいらのむねもり)に仕えていた女性で、宗盛の没後尼となりこの地に草庵を結びました。
この草庵には一本の松が植えられ、熊野が建久九年(1198)に亡くなった後も、松は代をかえながら「熊野が松」として大切にされ続けました。

※熊野の墓は、出身地の磐田市「行興寺」にあります。

能の代表曲「熊野」は、この熊野を主人公にした名曲です。

都で平宗盛に仕えていた熊野は、国元からの知らせで母の病を知り、宗盛にいとまを請うも許されず、花見の供を命じられてしまいます。
東山では酒宴が始まり、熊野はしぶしぶ舞を舞いますが、にわか雨に花が散りかかる様と母の命が重なり、涙ながらにその心情を和歌に詠みました。
宗盛はこの歌を聞き、その場で熊野に暇を許します。

 いかにせん みやこのはるもおしけれど なれしあずまの はなやちるらん

(熊野が松伝承地 案内板より)

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ここに書かれている熊野(ゆや)の生まれた国は、現在の静岡県磐田市で、天竜川の左岸にある行興寺に熊野御前が植えたと伝えられる国の天然記念物に指定された「熊野の長藤」があります。
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私のアルバムで確認したら、10年ほど前の5月初旬に「ゆやの長藤まつり」が行なわれている「熊野記念公園」を訪ねたことがありました。
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説明板には熊野が植えたとの伝承があると書かれています。
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推定樹齢が850年ともいわれている「熊野の長藤」です。
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熊野は藤の花が大好きだったそうです。
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この藤の近くに熊野の母の墓と並んで熊野御前の墓もありました。
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その熊野御前が、三河の衣の里で草庵を結び、平宗盛や平氏一門の菩提を弔いながら天命を全うしたということです。
その時に熊野の住んでいた衣の里の庵の側に生えていた大きな松は「熊野が松」と呼ばれるようになったということです。

重複しますが、インターネットで見つけた熊野(ゆや)御前の話を付け加えます。
平安時代末期頃、遠州国池田宿の長者に美しく、頭も良い娘がいた。
娘の名は熊野(ゆや)といい、久しく平宗盛の側に仕え、都住まいをしていた。
治承4年(1180年)、老母の病が重いという国元から知らせが届いた。
熊野は母の手紙を携えて、宗盛にいとまを請うが、これを許さなかった。
その代わりに、東山での花見の共を命じられる。
人々は春の装いで色めき立っていたが、熊野の心は重かった。
酒宴の場で熊野は舞うことになるが、にわかの雨で散りゆく桜の花を見ると、母の命が思いやられ、涙ながらに心情を和歌に詠んだ。

「いかにせん みやこの春もおしけれど なれしあづまの 春やちるらん」
さすがに宗盛も哀れに思い帰郷を許した。
しかし、熊野の懸命な看病にも関わらず、老母は亡くなった。
母の葬儀を済ませると、宗盛の待つ都へ戻ることにした。
ところが、衣の里(愛知県豊田市)まで来たところ、源氏と平氏とで大きな戦が行われ、平氏一門は西の方に追いやられ、滅ばされてしまったという事実を知ることになる。
母を失い、主人であった平宗盛も戦死してしまったことを思うと、悲しみは深くなるばかりであった。

熊野は、この衣の里に落ち着くことにした。
大きな松の木の側に粗末な草庵を結び、髪を下ろして尼になった。
そして、毎日宗盛や平氏一門の菩提を弔う為にお経を唱えて暮らした。
建久9年(1198年)5月3日、この地衣の里で天命を全うした。
その後、熊野の住んでいた庵の側に生えていた大きな松は「熊野が松」と呼ばれるようになった。

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現在、松の木は枯れ果て、豊田市十塚町にある駐車場の片隅に「熊野が松 伝承地」という標柱だけが残っています。

12月16日(土)の午後、豊田市近代の産業とくらし発見館(略称:くらし発見館)で現在開催されている企画展「今のとよた、昔のとよた」の関連イベントで「ギャラリートークとKiTARA周辺をぶらり」という催しに参加してきました。
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先月(11月)25日に、豊田市駅前北地区の再開発で「KiTARA(キタラ)」がオープンしました。
KiTARAとは市民から募集して決まった名称で、楽しいこと、わくわくすることを求めて、ここへ「来たら」という意味を込めて名付けられました。
再開発地区の名称である北地区、そしてビルの所在地である喜多町の「キタ」という音の響きも含んでいます。そして、あらゆる人々に末永く親しまれるようにとの願いが込められています。

今回のくらし発見館の企画展では「今のとよた、昔のとよた」と題し、挙母町の地図と写真を中心に豊田市中心市街地から、挙母(ころも)と呼ばれた昔のとよたを探ってみようということです。

ギャラリートークが行なわれたくらし発見館の展示室には豊田市街地の正確なジオラマがありました。
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愛知工業大学の学生が作った1000分の1の模型だそうです。
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ギャラリートークでは、この模型を使って今の場所の昔の写真を見せながらの説明がありました。
およそ30分間の学芸員の方のギャラリートークの後、くらし発見館から外に出て、周辺をぶらりと散策をしながら数か所での現地での解説がされました。
くらし発見館のすぐ横には、かつての水路跡があり、この水路で矢作川からの物資を運んでいたとか、
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この川(五六川)で、喜多町と竹生町が分けられていたという話がありました。

次に進んで行ったところは児ノ口(ちごのぐち)公園のとなりの駐車場の西側にある段差です。
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この段差は桜堤防(天神堤)と呼ばれていて、海抜の低い挙母の町を水害から守ったそうで、今でもその一部の桜の古木が数本残っています。
次に訪れた所は喜多町にある浄久寺(じょうきゅうじ)というお寺です。
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元は浄土宗の修行道場だったので、門前に結界石(宗教上特別の意味をもつ地域を示すために建てられた石)があり、「不許葷酒肉入門内」と刻まれています。
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この文字の意味は、「葷(くん)、酒、肉を持って、この門の中に入ることは許しません」ということで、葷とはネギ・ニンニク・ニラ・ラッキョウなど、においの強い野菜のことをいいます。
ことわざにも葷酒山門に入るを許さずという言葉があります。

そんな説明を聞きながら、お寺のすぐ近くにある喜多町の山車蔵にやってきました。
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挙母祭りの喜多町の山車がこの中に収められています。
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再開発の工事中には、近くに移動していたものを、ビルの工事が終わって、また元の場所に戻されたものです。
この山車蔵の裏側には、喜多神社も元の位置に再建されていました。
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真新しい銅板の屋根が光っている祠には神明宮・津島神社・秋葉神社の3体が祀られています。
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鳥居や常夜灯や狛犬などの石造物は、工事前の物がそのまま戻されています。
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喜多町の地名は新町→北町→喜多町と名称が変わってきており、喜多神社の常夜灯には「北町」の文字が刻まれています。
ちなみに、挙母の町には挙母城(桜城)を中心に東西南北の町名が残っています。

喜多神社の後には豊田市駅前通りに行き「KiTARA周辺ぶらり」の散策を終わりました。
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すっかり姿を変えた駅前北地区の建物と歩道です。
夜にはイルミネーションストリートとなって綺麗な駅前道路になっているようです。

ぶらりとKiTARAの周辺を歩きながら、今のとよたと昔のとよたを楽しむことができた時間でした。

豊田市内にある国の登録有形文化財をブログで時々紹介をしてきましたが、今回は平成19年(2007年)10月に有形文化財に登録された名鉄三河線の旧三河広瀬駅舎とプラットフォームを紹介します。

駅舎前に登録有形文化財の表示看板がありました。
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名鉄三河線の猿投駅から西中金駅までの区間が廃線になったのが、平成16年(2004年)4月1日のことなので、三河広瀬駅がその役目を終えてから、今年で13年余になりました。

役目を終えた駅は三河御船駅・枝下駅・三河広瀬駅そして西中金駅の4つの駅です。
その4つの駅のうち、駅舎が保存されているのは西中金駅と三河広瀬駅の2つの駅だけです。
先月(11月17日)のブログで旧西中金駅舎を紹介しましたので、その続編として三河広瀬駅の紹介になります。

改めて名鉄三河線の歴史を調べると、猿投駅から碧南駅までが大正13年10月に開通し、4年後の昭和3年11月に営業区間が南北で延長されて、南は吉良吉田駅から、北は西中金駅までの全線が開通しています。

ここ三河広瀬駅は、西中金駅までの全線が開通する1年前の昭和2年9月に開業しており、開業当時は三河広瀬駅が終着駅だったそうです。

そんな歴史のある現在の三河広瀬駅の駅舎です。
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駅舎建物全体は桁行6間、梁間2間半の大きさの、切妻造鉄板葺、平入の木造平屋建です。
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その建屋の中に待合室と、駅員執務室、休憩室がありました。
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待合室の正面南側中央には1間半幅の入口があけられ、上部のレールから釣り下げられた形の大きな両引き戸が付いていました。
待合室は、ほぼ全ての外壁部分に大きな引き違いのガラス戸がはめられています。
外装は下見板張で、腰は厚手の目板を打つ独特な造りとなっています。
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何故か、西中金駅の方に有った豊田市教育委員会の説明板が、三河広瀬駅には見つかりませんでした。

プラットホームは駅舎より約10m北側に位置する場所にあります。
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当初は、延長40m、幅2.6m、高さ0.6m規模の東西に長い石造構造物をコンクリートで嵩上げしたもので、後に延長80mに拡張され、隣接して流れる矢作川に沿って、緩やかに湾曲する平面となっています。
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南北の両側面には花崗岩の布積を見ることができます。
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貨物用および乗降客用プラットホームの存在やその変遷は、駅舎と同様、この地域の鉄道交通とのかかわりを示す歴史的遺産として貴重な存在といえるものです。

駅舎内は休日に営業する五平餅やお茶などの販売店に改装され、駅外では定期的に朝市などが開かれています。
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駅前はとよたおいでん
バスのターミナルとなっています。
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三河線の廃止代替バスであるさなげ・足助線と旭・豊田線の2系統が発着しています。
その2系統が相互に接続するようにダイヤが組まれています。


豊田市内にある国の登録有形文化財をブログで時々紹介をしてきましたが、今回は平成19年(2007年)10月に有形文化財に登録された名鉄三河線の旧西中金駅舎とプラットフォームを紹介します。

名鉄三河線の猿投駅から西中金駅までの区間が廃線になったのが、平成16年(2004年)4月1日ですので、西中金駅がその役目を終えてから今年で13年余になりました。
平成29年現在の旧西中金駅舎とプラットフォームの姿です。
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名鉄三河線の歴史を調べると、猿投駅から碧南駅までが大正13年(1924年)10月開通し、4年後の昭和3年(1928年)11月に営業区間が延長し、吉良吉田駅から西中金駅までの全線が開通しました。
西中金駅の開業から遅れて昭和5年(1930年)に木造平屋の西中金駅舎が建てられています。
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駅舎の横に豊田市教育委員会が立てたの説明板がありました。
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平成26年の歩道拡張工事に伴い、駅舎を2mほどホーム側に移動しており、小規模の改変はされていますが開業当時の姿をとどめていると書かれています。
説明文の中では、平成18年に国の登録有形文化財になったと書かれていますが、正しくは平成19年10月2日です。
国道153号線から見た旧西中金駅舎です。
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近づいて見た駅舎です。
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現在では駅舎を活用して、ふれあいステーションという名前で、土・日曜日にはコーヒーや五平餅を売る憩いの場になっているようです。
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平日に行ったので、駅舎の戸が閉まっていて中には入れませんでした。

下の写真は、廃線になる2年前、現役時代の平成14年(2002年)に撮影された西中金駅舎です。
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そして、線路から見た旧西中金駅のプラットホームです。
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旧西中金駅駅舎に接して北側に位置しており、延長36m、幅3.7m、高さ1.0mの東西に長い直線状で、花崗岩の谷積みで築き、上部には五角形の石材を据えて形状を整える造りになっています。
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白線が新しく引き直されていて、今でも電車がホームに入ってきそうな感じさえします。
駅舎の隅には、猿投━西中金間の鉄道の歴史が書かれたボードがありました。
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昭和60年からは電車が廃止されレールバスが運行されていたと書かれています。

プラットホームから少し先まで線路が伸びていますが、そのすぐ先で線路が終わっています。
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ここが、かつての三河線の最終端になります。
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三河線は、この先香嵐渓のある足助まで線路を伸ばす計画もありましたが、用地買収の難航や不況の影響で断念されたということです。

休日に訪ねて、有形文化財の駅舎でコーヒーや五平餅を楽しんでみてはいかがですか。





豊田市郷土資料館で開催中の開館50周年記念特別展「ぼくらの1967」の展示品の中に、50年前につくられた豊田市選定の「働く青少年の歌」のレコードがありました。
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レコード盤の前に置かれている「働く青少年の歌」の説明です。

当時の豊田市には、日本全国から職を求めてやってきた若者が集まっており、男女の出会いを求めて、企業間の若手交歓会も盛んであった。
こうした状況から、若者向けのご当地ソングを作る気運が高まり、1969年「働く青少年の歌」が誕生した。
公募で選ばれた歌詞に永六輔が補作し、作曲は中村八大、歌はデュークエイセスという豪華な顔ぶれであった。
(以下、略)

永六輔・中村八大といえば、あの誰もが知っている「上を向いて歩こう」の作詞・作曲をされた2人です。
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譜面もありました。
「 豊田市 ”働く青少年の唄” 明日えと生きるもの 」と書かれています。
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公募選ばれた花井和博さんの歌詞(永六輔補作)を書き写してみました。
① この道をどこまでも歩き続けて たとえ立ち止まっても戻りはしない
  やがていつか僕らのこの手のひらに 幸せをつかむまで歩き続けよう
② この胸に限りない夢を育てて 愛し合う友の手で花を咲かせよう
  流す汗も輝き働く仲間 幸せをつかむまで夢を育てよう
③ あの空をいつまでも抱きしめよう 仲間こそ太陽とひまわりの花
  雨も風も耐え抜きこの手のひらに 幸せをつかむまで花の咲くまで

レコードを試聴できるということなので、係員の人にお願いして聴かせてもらいました。
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軽快なメロディーとデュークエイセスの歌声が流れました。
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どんな曲か、興味のある方は、豊田市郷土資料館に足をお運び、係員の人に聴かせてもらってください。
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開館50周年記念特別展は一般300円(70歳以上無料)で、12月3日(日)まで開催しています。

10月28日(土)の東海地方は、前線や湿った空気の影響により、朝から雨模様のぐずついた天気になり、予定していた第3回やつば池健康ウォークは、残念ながら中止になってしまいました。

今日と明日29日(日)の2日間、豊田市寺部町にある市指定文化財の旧松本家長屋門と遊佐家長屋門で秋の特別公開が行なわれ、特に遊佐家長屋門では公開3周年記念特別展が開催されるということで、午後から小雨が降る中でしたが出かけてきました。
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2つの長屋門は100mほどしか離れていない場所にあります。
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旧松本家長屋門については昨年(2016年)の4月9日のブログで紹介していますので、今回は遊佐家長屋門の紹介をします。
東の方向から見た遊佐家長屋門です。

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そして西の方向から見た遊佐家長屋門です。
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遊佐家の入り口の門です。
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門の横に豊田市教育委員会の説明板がありました。
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門をくぐって中に入ると、長屋門の建屋の土間の部屋に説明のパネルや資料が展示されています。
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長屋門を修理する前の内壁や漆喰の外壁の一部が保存されています。
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最近ではすっかり見かけなくなった、竹を編んだ下地に壁土を塗った構造の説明もありました。
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遊佐家の母屋に使われていた瓦には、仕えていた寺部城主の渡辺家の家紋が使われていたそうです。
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特別展の2日間は母屋の一部も一般開放されていました。
遊佐家の末裔のご家族の皆さんは今もこの母屋に住んでおられます。
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母屋の前には立派な庭がありました。
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第2会場の母屋の中も見せていただきました。
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保存されているさまざまな掛け軸に、
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見るからに高価な漆器類、
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扇面貼り交ぜ屏風や、
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伊勢物語の屏風がありましたが・・・
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いったいどれほどの価値があるものなのか、聞くのも恐ろしい物ばかりです。

欄間やヒノキの正目板の天井など、宮大工も驚いたという木材で造られている和室です。
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歴史ある建造物や豪華な家具など、維持されていくのも手入れも大変そうです。

なかなか見られない文化財を見させてもらった後、旧松本家長屋門にも立ち寄り、先着50名限定のお抹茶をいただいて帰りました。

先日(10月21日)のブログで、豊田市内で登録有形文化財の建造物のある寺院の一つ、若林西町の浄照寺を紹介しましたが、もう一つ豊田市内に有形文化財に登録されている建造物がある寺院がありました。
そのお寺は、猿投グリーンロードの力石インターチェンジの近くにある豊田市力石町の楽命山 如意寺(らくめいざん にょいじ)です。
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如意寺の創建は鎌倉時代の文永元年(1264年)、武蔵国荒木村(埼玉県行田市荒木)の領主 源海上人(安藤駿河隆光諱光信:親鸞の弟子)によって開かれたのが始まりとされます。
当時は満福寺と称していましたが、鎌倉時代末期の正中2年(1325年)に当時の衣城の城主中條氏の招きにより三河国青木原(現 花本町)に移り寺号を如意寺に改称、さらに室町時代の貞和元年(1345年)に志多利郷(石野町)に移り、11世明慶坊道知により江戸時代初期の慶長10年(1605年)に現在地に移されています。
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如意寺には国指定の重要文化財 や豊田市指定の文化財を所有しています。
 ・絹本著色親鸞上人絵伝-室町時代-国指定重要文化財
 ・木造源海上人坐像-室町時代-豊田市指定文化財
 ・大般若経-平安時代末期-豊田市指定文化財
以上、豊田市教育委員会の説明を参考。

指定文化財の他に、如意寺の建造物が平成25年(2013年)3月29日に有形文化財に登録されています。
登録されたのは山門・本堂・書院・鐘楼・太鼓楼の5つの建造物ですが、お寺の境内にはその旨の説明板は見つかりませんでした。

如意寺の山門です。
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建造された時期は江戸時代後期のものです。

本堂(左)と書院(右)です。
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本堂も江戸時代後期の建造で文政6年(1823年)頃といわれています。
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書院も江戸後期の建造で、明治42年に増築されているようです。
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鐘楼です。
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江戸時代中期、徳川幕府9代将軍・家重の時代の宝暦5年(1755年)頃の建造物と伝えられています。

そして太鼓楼です。
山門の北西に位置する木造平屋建て、入母屋造り桟瓦葺(さんかわらぶき)です。
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江戸末期の建造で昭和中期に改修されているそうです。
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屋根中央に棟の向きを違えた入母屋造桟瓦葺の太鼓櫓(たいこやぐら)を載せています。
外壁は鉄板張に改修されており、内部は西側二間半を茶所、東側二間を物置に間仕切りされています。
太鼓櫓の外壁は押縁下見板張で、四周を無双窓としています。

太鼓楼の横に豊田市の名木に指定されているイチョウ(公孫樹)の木がありました。
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樹高が20mある大木です。
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この木の根元にギンナン(銀杏)が大量に落ちていました。
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さすがにこれだけのギンナンが落ちていると、ギンナンを知っている方は分かると思いますが、周囲には異様な臭いが漂っています。
実は小粒でしたが、ギンナンが好きな人は、住職に話せば分けてもらえそうなくらい落ちていました。

豊田市内にある国の登録有形文化財を登録順に伊世賀美隧道から井上家西洋館までをブログで紹介をしてきましたが、今回は豊田市若林西町にある向島山 浄照寺(こうとうざん じょうしょうじ)の建造物を紹介します。
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浄照寺の本堂・庫裏・書院が国の有形文化財に登録されたのは、2005年(平成17年)12月27日です。
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お寺の外塀に登録有形文化財の説明板が掲示されていました。
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お寺の建造物の配置図です。
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① 浄照寺本堂は1898年(明治31年)、② 庫裏は江戸時代末期の1860年(万延元年)、③ 書院は1934年(昭和9年)に建立されたものです。
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山門をくぐると正面に本堂があります。
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① 本堂は正面・側面ともに約20mと規模が大きく、入母屋造り、桟瓦葺、向拝付で、平面は吹放の縁、外陣、矢来と続き、内陣は本間とその両側の余間及び飛檐(ひえん)間からなり、後堂がつく造りとなっています。
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伝統的な形式を踏襲しつつ、絵様細部や彫物等に近代の造形が窺えます。
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② 庫裏は本堂の東にあります。
長大な平入建物で、屋根は切妻造段違、桟瓦葺です。
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玄関横にあった表示板がありました。
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正面の南面東端が玄関です。
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建物の中には入らなかったけれど、玄関の奥の土間は豪放な梁組を見せ、床上部は3室を2列に配しています。
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③ 書院は本堂と庫裏との間にありますが、奥の方にあるので境内からでは建物が見えません。
下の写真は書院の入り口にある式台です。
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書院は昭和9年に建造されたもので、東西棟の切妻造り、四面に下屋を廻し、桟瓦葺です。
平面は8畳2室と6畳2室を田の字形とし、四周を縁で囲む造りになっています。

浄照寺の駐車場横にクロマツの大木がありました。
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昔は「お寺の大松」と呼ばれた大木が4本あったそうですが、虫害と宅地化により今は1本だけが残っています。
豊田市の名木に指定されていて、樹齢が230年以上、樹高が30mあります。
遠くからでもよく見える存在感のある巨木です。

八ツ谷池(やつばいけ)とよく似た地名で、何か関係がありそうな「八迫山(やつばさん)」という名前の場所が豊田市内にありました。
その場所は、やつば池から南へ約1.6キロの、エディオン豊田本店横の国道153号線にある名鉄バスのバス停です。
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八迫山のバス停の所在地は、豊田市三軒町7丁目になり、すぐ隣に大きな墓地があります。
反対車線の赤池方面に行くバス停の場所は小川町1丁目になります。
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バス停の名前は八迫山ですが、今はこの場所の地名が変わっており、八迫山という地名は地図から消え去ってしまっています。

豊田市朝日ヶ丘まちづくり委員会が作製した「朝日ヶ丘地域歴史の香る散歩みち」という案内板に「八迫山」という文字を見つけました。
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八迫山の説明部分を拡大しました。
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「昭和30年前後まで火葬場として使用されていた。現在は小坂八迫山管理事務所において、700件ほどの人が墓地として利用している。」
と書かれています。

豊田市の歴史年表で調べて見ると(抜粋)
昭和26年3月 挙母市市制施行
昭和27年9月 八ッ迫墓地内に市営火葬場設置
昭和34年1月 市名変更、豊田市へ
昭和34年5月 市営火葬場を宝来町に移転

と、昭和27年から昭和34年までの間のおよそ7年近く、この場所に市営の火葬場があって、この辺りの地名を「八迫山(八ッ迫)」と呼んでいたようです。

名鉄バス会社がバス停の名前を決める時に、八迫山の名が使われて、今にその名が残されているということになります。
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豊田市喜多町にある豊田市近代の産業とくらし発見館に掲示されていた、明治10年(1877年)の挙母全図という絵地図を見ると・・・
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挙母村の字名が細かく書かれています。
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一部をさらに拡大すると、百六番に「字西八ッ迫」その下に「字東八ッ迫」という文字が確認できます。
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この西八ッ迫又は東八ッ迫の場所あたりが現在のバス停の八迫山になると思います。
下の方に、今も地名が残っている「字小坂」の地名があります。
(※ この絵地図は、右の方が北の方角になります)

八ツ谷池(やつばいけ)と八迫山(やつばさん)。
2キロも離れていない場所にある2つのよく似た名前の地名は、今は地図からは消えてしまい、溜め池の名前とバス停の名前にその名を残すのみとなりました。


ブログのタイトルとしている溜め池の「やつば池」は、漢字では「八ツ谷池」と書きます。
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一般的には「」の文字は「」とか「たに」と読み、「」とは読みません。
それなのに、なぜ「八ツ谷」を「やつや」と呼ばずに「やつば」と呼んでいるのか、前から疑問でした。
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少し歴史をさかのぼって、地名について調べて見ると・・・
現在の豊田市の挙母地区の原型は、明治39年7月に挙母町、梅坪村、逢妻村、根川村、宮口村が合併することによって出来上がっています。
昭和26年3月に挙母町から挙母市に市制が施行されました。
町や村の字名は、多少の変更はあったものの、概ね江戸時代の名前を引き継いでいました。
しかし、昭和34年(1959年)に挙母市から豊田市へ改称する際に多くの字名が消えていき、殆どが〇〇町〇丁目〇〇番地に改められています。

とよたの地名語源由来が書かれた書物によると、八ツ谷池がある現在の豊田市丸根町3丁目付近は、旧地名では宮口村字八ツ谷となっていて、「八ツ谷」を呼び名で「やつばさま」と書かれています。

地名の呼び方で、山や丘との間に細長く奥深く入り込んだ「谷」のことを「狭間」といい、このあたりの言葉で狭間を「ばさま」と発音し、谷や湿地のことを「迫(ば)」と略していう場合があります。
ちなみに戦国時代の今川軍と織田軍が戦った「桶狭間」の地も「おけはざま」と呼ばれています。

挙母市から豊田市に市名が改称された時に字名の八ツ谷は消滅しましたが、溜め池の名前に八ツ谷池として昔の地名が残され、「やつばさま」の「さま」がいつしか取れて「やつば」と呼ばれるようになり、「八ツ谷池」と書いて「やつばいけ」となったと推測されます。
調べている中で、ある書物には「八ツ谷池」を「八迫池」と当て字にして書かれたものもありました。

上空から見た現在の八ツ谷池全景です。(Googleより)
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八ツ谷池の周囲には、住宅が囲むように迫っています。
2017-10-08
住宅地になる前の八ツ谷池周辺は、どんな景観だったんでしょう!

昭和10年(1935年)の西加茂郡挙母町実測図がありました。
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地図を拡大しました。
見にくいですが下の地図の中央にある池が八ツ谷池です。(文字を白色で書き込みました)
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八ツ谷池の周辺には山地が広がっていて、西側の逢妻女川沿いには田んぼがあります。
家並みがあるのは宮口上と宮口神社周辺の山ノ神と一色の部落です。
宮口上の東方に洞泉寺(卍)が見つかります。

もう一つの昭和12年の挙母町の地図にも、たくさんの溜め池が書かれています。

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(※池の名前の文字は、私が地図に書きこんだものです)


その15年後の昭和27年の挙母市の地図の一部を拡大したものです。
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まだこの時でも池の周りには何も書かれていません。
小高い丘から八ツ谷池に流れるたくさんの小さな谷があって、雨水が流れ込んでいたのでしょうか?
地図を見ながら想像するのも楽しいものです。

豊田市陣中町にある豊田市郷土資料館では、開館して今年(2017年)の1月16日で50周年の節目を迎えたということで、開館50周年記念特別展「 ぼくらの1967 50年前のとよた・日本・世界~ 」が9月30日(土)から開催されています。
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特別展の初日の9月30日午後2時から、郷土資料館の学芸員と、とよた歴史マイスターによる展示解説が行なわれるということなので参加しました。
観覧料は一般の人は300円ですが、70才以上は無料ということでした。(※私は、3ヶ月前に70才になりました。ラッキー!)

この特別展のために郷土資料館の第1・第2展示室の常設展示品をすべて取り外し、新しい展示品に模様替えがされています。

郷土資料館学芸員の伊藤さんから、今回の特別展の概要から、展示されている品物や時代背景などの話がありました。
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懐かしいレコードが40枚ほどあります。
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係員が居る時なら、好みのレコードを聴くこともできます。

第1展示室の中央に初代カローラが置かれていました。
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千葉県の方が所蔵している車で、昭和44年式で48年間使用しており、走行距離数が56万キロだそうです。
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まさに50周年記念特別展にピッタリの展示品です。

当時の新聞広告もありました。
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カローラ1100デラックスの価格は、ラジオ・クーラー別で49.0 万円となっています。
この頃の高卒の初任給って、どのくらいだったんでしょうか?

展示車の後ろには大きな写真が貼られていました。
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その当時の、豊田市駅前付近の様子だそうです。

展示室には昭和40年代の生活で使っていたものがずらりと並んでいました。
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ステンレス流し台やホーロー鍋が台所の姿を変えていきました。
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レトルトカレーは昭和43年(1968年)2月、大塚食品が世界初の市販レトルト食品『ボンカレー』を阪神地区で限定発売しました。
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展示されているレトルトカレーは、名古屋発祥のオリエンタルカレーが、稲沢市の新工場のレトルト設備完成に伴い、昭和44年(1969年)に発売したオリエンタルスナックカレーです。(但し5年後に販売終了しています)
このころテレビから流れる喜劇俳優の南利明さんが出演のスナックカレーCMの中で最後に「ハヤシもあるでよ~」と名古屋弁フレーズは記憶にある人も多いと思います。

この他に、おもちゃ、着せ替え人形、
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本棚に雑誌平凡・明星が揃っています。
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ステレオの上に置時計が、どれもむかし懐かしい景色です。
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これらの展示品の多くは、北名古屋市歴史民俗資料館(旧 師勝町歴史民俗資料館)の昭和日常博物館から借用していました。

特別展は12月3日(日)まで(月曜日は休館)開催されていますが、カローラの展示は10月29日までで、この後はまた別のものが展示されるそうです。

先日、豊田市広美町にある明治緑道三連水車を見に行った時、水車公園のすぐ近くにある豊田市立高嶺小学校の敷地の周囲の斜面に、たくさんのレリーフが貼られているのを見つけました。
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全部で40枚ほどあり、右端から始まって高嶺小学校と明治用水のあゆみが刻まれています。
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その中から、明治用水に関係する画面だけを抜き出して掲載します。
全部で21枚ほどあります。
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江戸時代末期の安城が原(西三河南部)です。
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工事開始の1879年は明治12年です。
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明治13年(1880年)に通水式が行なわれ、翌年の明治14年に竣工となっています。
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最初の頭首工が完成したのは明治42年です。
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昭和11年から昭和34年まで稼働していた発電所で、明治用水の水力で発電していました。
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コンクリート化の工事が行なわれた1938年は昭和13年です。
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昭和33年に完成した新頭首工で、およそ5年かけて行なわれた工事です。
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三連水車を見に行って、明治用水の歴史を少し知ることができました。


豊田市には、登録有形文化財が平成29年8月末現在で、18の建造物が有形文化財に登録されています。
登録有形文化財とは、国や県や市町村が指定する文化財とは別に、平成8年(1996年)の文化財保護法改正により創設された文化財登録制度に基づき、文化財登録原簿に登録された有形文化財のことです。
豊田市で最初に登録された有形文化財は、平成12年(2000年)9月26日に登録された明治時代の建造物で豊田市明川町の「伊世賀美隧道」です。
(※ 2017年7月16日のやつば池散歩道のブログで紹介)

今回は豊田市では2番目になる、平成12年(2000年)10月18日、現在の豊田市近代の産業とくらし発見館として使用している「愛知県蚕業取締所」の建造物と同じ日に登録された有形文化財の建造物「旧井上家住宅西洋館」を紹介します。
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この建物は豊田市民芸館の敷地の中に移築されて保存されています。
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民芸館の開館時間内に建物は開放されていて自由に見ることができます。
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東の方角に玄関があります。
玄関の横に登録有形文化財の銘板がありました。
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銘板は雨ざらしになっているので塗料も薄くなってしまっています。
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登録番号は第23-0047号で、旧井上家西洋館と同じ日に登録された愛知県蚕業取締所の建物の登録番号はこの番号の続き番号でした。

南側から見た西洋館です。
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建物の横には豊田市教育委員会が立てた説明板がありました。
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旧井上家西洋館
この建物は明治時代初期に名古屋で開催された博覧会の迎賓館として建築されたと伝えられています。
その後、銀行として利用された後、昭和3年(1928年)故井上徳三郎氏が経営していた井上農場の迎賓館として現在の豊田市井上町に移築されました。
そして、平成元年(1989年)銀行として利用されていた姿に復元し、この場所に移築されました。
建物の1階には、東側の出入口以外を総て和風の連子格子窓にし、2階のベランダには西洋風の柱頭飾りのついた丸柱や菱格子天井があります。
木造2階建て、建築面積23.38㎡の和洋折衷の建物で、明治時代の洋風建築物としては豊田市内で唯一残っているものです。
この建物は平成12年(2000年)に国の登録有形文化財に登録されています。
と書かれています。

さらに、見どころとして書かれていた、玄関上のカブの形をした窓枠です。
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カブは縁起の良い食べ物といわれ「株が上がる」という言葉にも通じるということです。



もう一つのみどころの、2階のアーチ型の窓です。
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窓に使われているガラスは、明治時代のゆがみのあるガラスで、当時の雰囲気を感じることができるということです。
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ゆがみのあるガラスは写真ではチョット分かりづらいです。

説明板に書かれていた、建物の1階の和風の連子格子窓です。
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1階の部屋の中から見た格子窓です。
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また、2階のベランダにある西洋風の柱頭飾りのついた丸柱と、
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2階の階段上の菱格子天井です。
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2階の一室の家具と
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照明器具です。
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もう一部屋の家具と
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照明器具です。
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こうした部分に和洋折衷で、明治時代の洋風建築物としての価値が認められ、国の有形文化財に登録されました。
1階は和風の様式であるのに対し、2階は純洋風のデザインとなっており、明治時代の人々が憧れた西洋文化を表現している建物です。

9月6日(水)の中日新聞朝刊の県内版に豊田市郷土資料館の記事が載せられていました。
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戦国時代を代表する2つの戦の様子を描いた豊田市指定文化財の「長篠合戦図と小牧・長久手合戦図の屏風(びょうぶ)」の公開が9月5日から豊田市郷土資料館で始まったというものでした。
9月18日まで行われているということです。

新聞の記事によると、屏風は六つ折り2組の「六曲一双」で、それぞれ縦1.56メートル、横3.56メートルほどの大きさです。

当時、犬山城主だった尾張藩付家老・犬山藩成瀬家が所蔵の作品を写本したものだそうです。
原本は、成瀬正一・正成親子が同合戦に参戦し、徳川家康配下での武功を顕著な構図で描いているものですが、豊田市郷土資料館が所蔵している本図は忠実な写ではなく、渡邊守綱の活躍が強調されている点に大きな特色があるそうです。
成瀬家から挙母藩の渡邊家に養女となった姫君ゆかりの資料と伝えられているものです。
江戸時代後期の作とされますが、作者は不詳です。
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写真の右側の屏風は、長篠の戦い(1575年)で、織田信長が武田勝頼の騎馬軍団を鉄砲隊で迎え撃つ様子を、また左側(手前側)の屏風は、小牧・長久手の戦い(1584年)で起きた羽柴秀吉と徳川家康の両軍の戦いを描いています。

公開されている屏風は江戸時代に描かれた写本ですが、豊田市の文化財に指定されており、その価値は高く、細かいところまではっきりと精巧に描かれています。
郷土資料館ではガラスケースの中で大切に保管されており、撮影も禁止になっていました。

この2つの屏風図のうちの一つ「長篠合戦図」の複製品(レプリカ)を豊田市が作成したものが市役所南庁舎ロビーで展示してあるということなので見に行ってみました。

複製品ということでガラスケースにも入れられてなく、カメラ撮影はOKでした。
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屏風絵の何処に誰が描かれているか説明がされています。
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豊田市にゆかりの武将、渡邉半蔵守綱の活躍が強調されているようです。
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屏風図を拡大して写してみました。
渡邉守綱が2カ所に描かれています。
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瓢箪を掲げる木下藤吉郎(羽柴秀吉)の姿がありました。

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松の枝の陰で白馬に騎乗の信長公です。
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川を挟んで反対側に馬上の武田軍の大将・武田勝頼の姿がありました。
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屏風絵は郷土資料館の物と比べると絵の鮮明度は悪いけれど、それでも素晴らしい長篠合戦図の屏風絵が見られます。
市役所南庁舎のロビーの展示は平日のみで9月22日までだそうです。

豊田市には、登録有形文化財が平成29年8月末現在で、18の建造物が有形文化財に登録されています。
登録有形文化財とは、国や県や市町村が指定する文化財とは別に、平成8年(1996年)の文化財保護法改正により創設された文化財登録制度に基づき、文化財登録原簿に登録された有形文化財のことです。
豊田市で最初に登録された有形文化財は、平成12年(2000年)9月26日に登録された明治時代の建造物で豊田市明川町の「伊世賀美隧道」です。
(※ 2017年7月16日のやつば池散歩道のブログで紹介)

そこで、今回は豊田市で2番目に登録された有形文化財の建造物を紹介します。
その建物は、時々このブログでも登場している豊田市喜多町の「豊田市近代の産業とくらし発見館」(略称:くらし発見館)です。
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この建物は大正11年(1922年)に、「愛知県蚕業取締所第九支所」として竣工されました。
当時の愛知県は、全国屈指の養蚕県で西三河北部の繭(まゆ)取引中心地として栄えていたころを学ぶことができる数少ない歴史遺産のひとつです。
また、この建物は、豊田市域に現存する最古級の鉄筋コンクリート造り建築物であるとともに、この地域における初期の鉄筋コンクリート造りの建築様式を伝えています。
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伊世賀美隧道と同じ年の平成12年(2000年)10月18日に、豊田市近代の産業とくらし発見館の「建物」と「正門」の2つの建造物は、「旧愛知県蚕業取締所第九支所」の名称で国の登録有形文化財となりました。
くらし発見館の建物の正面入り口です。
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入り口の横に登録有形文化財の銘板が有りました。
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正面入り口の建物側から見たもう一つの登録有形文化財の正門です。
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観音開きの木製の扉で上半分が格子状になっています。
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正門の上部に取り付けられている玄関灯はレトロな感じのものが使われています。
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建物は鉄筋コンクリート造りですが、窓枠などはアルミサッシではなく、すべてが木製の窓や扉です。
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白い塗料で塗られていますが、時代を感じる窓枠です。
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この豊田市近代の産業とくらし発見館の建物は、昭和28年(1953年)からは挙母市立図書館(現・豊田市中央図書館)、昭和45年(1970年)からは准看護学校や豊田市青少年相談所として使用されており、現在に至っています。

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