やつば池散歩道(豊田市)のブログ

やつば池(八ッ谷池)は、私が住んでいる豊田市朝日町と、その隣の丸根町に接する小さな農業用の溜め池です。              やつば池を周回する散歩道を元気に歩ける幸せを感じながら、地域の話題や情報を発信します。

カテゴリ: 歴史

刈谷市野田町の野田八幡宮で、今からおよそ300年前の江戸時代に始まったといわれている雨乞いの奉納「平成29年度  野田雨乞笠おどり」が8月27日(日)午後4時から行なわれました。
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野田雨乞笠おどりに関して記録に残されている一番古い記述は、正徳2年(1712年)の『社家古文書』に見られます。
その後、伝統に輝くこの雨乞笠おどりも戦時中の昭和17年(1942年)を最後に中断し、まぼろしの物となりつつありました。

それから37年が経過した昭和54年(1979年)、刈谷市制30周年を期に地元から野田雨乞笠おどりの復活の機運が盛り上がり、野田青年団と地元の小学校児童の協力を得て、当時の経験者の指導により練習を重ねて、見事に復活することができました。
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これを機に、翌年の昭和55年(1980年)3月に「野田雨乞笠おどり保存会」が結成され、同年の11月東京における全国青年大会(郷土芸能の部)に愛知県代表として出場し、見事優秀賞に輝き、野田雨乞笠おどりは全国にも知られるようになりなした。
その後、昭和59年(1984年)8月に刈谷市無形民俗文化財に指定されています。


野田八幡宮は、白鳳5年(676年)創建と伝えられる神社です。
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江戸時代から藩主の信仰が厚く、刈谷藩の時代には市原稲荷・知立神社と並んで領内三社として位置づけられていました。
古くから「八幡さま」と親しまれ、産土(うぶすな)の神として村人の信仰を集めてきました。

社記によると、野田八幡宮は「八幡大神(応神天皇)」・「物部祖神」などが祀られています。
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刈谷市内では一番位の高い神社であり、現在は末社が23社あります。
長い参道の途中に真っ赤な鳥居がありました。
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扁額の文字が薄くなっていましたが「野田八幡宮」と確認できます。
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さらに参道を奥に進むと、境内がひろがり、その奥に社殿があります。
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午後2時半頃の境内では、雨乞笠おどり保存会の人達や地元自治会の人達で、これから始まる雨乞笠おどりの準備が行なわれていました。
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拝殿でお詣りして、境内に隣接している野田史料館を見学させていただきました。
野田地区が建設した地区の史料館で、昭和56年に開館しました。
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江戸時代から明治時代にかけての野田村の古文書を中心に、野田八幡宮に伝わる刀剣類、甲冑類などが保管されており、水野勝成奉納の総髪兜そうごうのかぶと、棟札、野田村文書、野田八幡宮絵馬群(いずれも刈谷市指定有形民俗文化財)が所蔵されています。
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水野勝成奉納の総髪の兜です。
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エアコンがきいている涼しい館内では、雨乞笠おどりのVTRが放映されていて、時間を過ごさせていただきました。
開始30分前の午後3時半頃には式典の準備が整い、椅子が並べられ来賓者の皆さんがテントの下に集まってきています。
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子供たちのためにスーパーボールすくいが始まっていました。
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雨乞笠おどりを演じる浴衣姿に赤ダスキの子供たちも集まってきて、かき氷を食べながら楽しそうにしています。
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午後4時、野田雨乞笠おどり奉納の式典が始まりました。
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野田八幡宮の宮司による神事が執り行われていきます。
祝詞奏上(のりとそうじょう)や、
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主催者、来賓者の玉串奉奠(たまぐしほうてん)、
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雨乞笠おどり出演者の代表も玉串を奉げました。
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野田雨乞笠おどり保存会会長による主催者挨拶や、刈谷市長初め多くの議員さんら来賓の方々の祝辞と、40分近いチョット長い式典でした。
早く雨乞笠おどりが始まらないかと待ちわびる人たちで、境内にはたくさんの人が集まってきていました。
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式典が終わり、椅子が片づけられて、いよいよ雨乞笠おどりの始まりです。
午後5時ごろ「大人の部」が始まりました。
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太鼓を真ん中にして、左右に7人づつの演技者が並びました。
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浴衣に赤いたすきを掛け、一文字菅笠をかぶって、両手に桐の木で作った「つつろ」という短いバチを持ちます。
菅笠は紅白に彩られ、華やかな装いです。

ほら貝の合図で「雨乞のうた」が歌われ、雨乞笠おどりが始まりました。
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雨乞笠おどりは、踊り手が2人1組になり、太鼓をはさんで向かいあいます。
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雨乞の唄と采配に合わせて踊り手が踊りながら太鼓や太鼓の背を打ちます。

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この雨乞笠おどりは、非常にシンプルで良く言えば「素朴」、見方によれば「地味」といえる、古きよき時代の、農民の切実な願いがあらわれている趣のある踊りになっています。

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踊りの途中で、雨が降ってこないかと空を見上げる動作もありました。
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二人で太鼓に腰掛けて踊りが終わります。
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踊りには数種類あって、それぞれ見せ所があります。
踊りも順番があり、「場ならし」→「三拍子」→「ささら」→「綾」→「おさめ」が基本の順番です。
「場ならし」で歌われる「雨乞のうた」の一部です。
 がたぎたよ 花も消えよ その花をも消よ
 がたぎたよ 一人一人としのばはよかろう
 しのばぬ人は なもよかろう

 (以下省略)

およそ15分で、「大人の部」の7組が踊り終えました。
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この後は「子供の部」です。
高校生2名を含め中学生から小学生、こども園の年長組や年中組も参加しての総勢47名の雨乞笠おどりです。
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菅笠を付けてもらい準備も楽しそうです。
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子供の部のまとめ役の人は、これから踊る順番を一人一人名前を呼んで確認をしています。
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準備が整いました。いよいよ「子供の部」の雨乞笠おどりの始まりです。
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人数が多いので4つの太鼓が並べられました。

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踊りの内容は大人と同じです。
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お孫さんの可愛い踊る姿に、カメラを持つ人たちの笑顔がはじけます。
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陽も傾き、涼しい風が吹き抜ける野田八幡宮の境内では、まだまだ踊りが続いています。
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夕方6時近く、長い伝統がある素朴な雨乞笠おどりを楽しんで、振舞いでいただいたポン菓子を手にして帰りました。

かつて豊田市でも、挙母や足助で芸者さんたちが活躍していた時代がありました。

そんな芸者さんたちの活躍を伝える企画展が豊田市郷土資料館で行なわれています。

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入場無料で9月3日まで、第2展示室で見ることができます。

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現在では芸者や花街の文化は、京都などの限られた観光地に見られるのみですが、かつては豊田市域でも挙母・足助などで芸者が活躍していました。
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今回の企画展では、市民へのインタビューや提供いただいた資料によって明らかになった昭和30~40年代の豊田市域の芸者と、彼女たちが彩ったお座敷の文化について紹介しています。

当時の食事に使われた食器類も展示されていました。
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昭和初期の挙母は中心産業の蚕糸業が衰退し、「破れころも」と言われるほどさびれていました。
その中で行なわれた芸者による「挙母小唄」「挙母音頭」の披露は町民を元気づけたようです。
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また、足助の芸者たちが名古屋まで宣伝に行った香嵐渓には、現在も多くの観光客が訪れています。
あまり知られていないことですが、芸者は自らの芸でまちを活気づけ、その振興を長きに渡って支えていたのです。

先日、豊田市近代の産業とくらし発見館で開催されている企画展の「とよたの製瓦業~いぶしの輝き~」を見に行った時に、豊田市内にも大正時代から昭和にかけて瓦を焼いていた「達磨窯(だるまがま)」が残されている所が有るということだったので、8月19日(土)に訪ねてきました。

名鉄三河線の土橋駅に近い、豊田市寿町の民家の横にその場所がありました。
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「寿町の達磨窯」は豊田市指定有形民俗文化財ということで、豊田市教育委員会の案内看板と説明板が立てられていました。
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説明板には大正10年頃につくられ、昭和56年まで使われていたと書かれています。
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これが正面から見た現存する達磨窯です。最大長6.1 メートル、高さ2.1 メートルあります。
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窯を正面から見た姿が禅僧の達磨大師に似ていることが達磨窯の名前の由来です。
達磨大師ってどんな人なのか、ネットで調べたらこんな写真が有りました。
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達磨大師像です。この窯に似ているといえば似ていますかね!
達磨大師という人は、5世紀後半から6世紀前半の人で、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧です。

達磨大師はこれくらいにして、達磨窯に話を戻します。
斜めから見た達磨窯です。
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屋根が出来る以前は、当然のこと雨ざらしだったため、窯の表面の土が風化していたと思われます。
新しい土で表面を補修したあとがあります。

上部の煙突も新しく作られたようです。
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両サイドの焚口も補修されています。
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崩れてしまった部分の補修がされて、瓦を焼いていた当時の姿に近い状態になっているようです。
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いぶし瓦を一度で目板(桟瓦)で900~1000枚焼くことが出来ますが、窯の中の温度が一定ではないために、すべて良いものが出来るわけでは無く、半数近くが不良品になったと聞きました。
また、最盛期にはひと月に8回も焼成を行なったこともあったそうです。

全国的にも希少価値の達磨窯なので、豊田市の歴史遺産として、今後も大切に保存していただきたいものです。

豊田市喜多町にある豊田市近代の産業とくらし発見館では、平成29年度の企画展として7月25日から10月1日まで「とよたの製瓦業(せいがぎょう)~いぶしの輝き~」が開催されています。
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休館日は毎週月曜日で、入館無料です。
8月5日(土)に見に行ってきました。
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企画展のパンフレットには、
かつて、豊田市域には多くの瓦製造所があり、瓦を焼くダルマ窯から立ちのぼる煙は一つの風物でした・・・・・
と書かれていて、展示室には説明用のパネルや、さまざまな瓦の製作道具が展示されています。
豊田市域における瓦製造の歴史から、
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いぶし瓦を焼いたダルマ窯や、
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いぶし瓦を作る工程や、
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現在は無くなってしまった豊田市域の瓦製造所が説明されています。
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また、豊田市で活躍した鬼瓦職人の話も紹介されています。
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昭和30年頃には豊田市内で40か所を超えた瓦製造所も、昭和40年代に入ると、ダルマ窯は一つまた一つとその姿を消していったそうです。
その理由は、自動車産業の発展に伴う人口増加により市街地化が進み、瓦を焼く黒煙が嫌われたことや、瓦製造は重労働だったことや、碧南や高浜の大手企業に対し豊田市内は家内工業的な規模がほとんどで、資本面で対応が出来なかったなどがあげられるようです。
平成5年まで製造していた豊田市の花園町の寺田製瓦所も、伊勢湾岸道路関連の工事のため廃業となり、豊田市域の製瓦業は終わりを告げました。

現在、豊田市内で残っている唯一のダルマ窯が寿町にあります。
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大正10年ごろにつくられ、昭和56年まで使用されていたもので、歴史的に貴重な遺産として市の有形民俗文化財に指定されて大切に保存されています。


豊田市梅坪町にある雲晴山安長寺(あんちょうじ)の山門が国の登録有形文化財(建造物)に登録されることになり、国の文化審議会は、文部科学大臣に対し、7月21日(金)に答申されました。
今後、官報告示を経て、豊田市内では19件目の登録有形文化財となる予定です。
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安長寺は、室町時代の文明9年(1477年)創始と伝える真宗大谷派寺院で、江戸時代の安永2年(1773年)頃に当地に移りました。
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山門は、江戸時代末期の天保3年(1832年)本堂の前に東を正面にして建てられ、間口3.9m、奥行き約2.9mで屋根は瓦ぶきの入り母屋造りで、正確な高さは計測しておらず不明ということです。
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この山門は楼門ですが、上層に鐘を吊る鐘楼門ではなく、上層内部に仏壇を設け、かつては三尊仏を安置していました。
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このような楼門に三尊仏をまつる仏壇を設けた真宗寺院は豊田市内に他にはなく、多くの真宗寺院が存在する三河地方においても稀有な遺構であり、極めて貴重であるということです。
三尊仏は現在、安長寺内の別の建物に収蔵されています。
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鐘楼は山門の横に有り、新しく建て替えられて、山門とは対照的にピッカピカに輝いています。
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山門の横に今までの鐘楼に使われていた梵鐘が置かれていました。
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お寺の方の話では、古い梵鐘は戦争中に無くなってしまい、戦後の昭和23年ごろに鐘楼に取り付けられて、最近まで使われていた梵鐘だそうです。


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安長寺は、毎年早春の3月には梅まつりで賑わう平芝公園のすぐとなりのお寺で、梅まつりの期間中には、お寺の駐車場を梅を見に来た人が利用できる臨時駐車場になります。

また、山門横のしだれ桜は毎年3月下旬ごろに見頃になりライトアップもされています。
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上の写真は平成26年(2014年)3月27日に撮影したものです。

我が家の近くのお寺がこんな歴史的な価値のあるお宝の文化財があるとは驚きでした。

豊田市指定史跡の一つ、豊田市小坂本町にあります七州城(しちしゅうじょう)址を紹介します。
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七州城は、豊田市の市街地中心部を見下ろす小高い台地上にあります。
標高60mにある典型的な平山城で城全体の面積は約20haです。
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江戸時代、挙母藩2代藩主内藤学文(さとふみ)は、矢作川に近い低地に桜城(挙母城)を造っていましたが、度重なる矢作川の氾濫による洪水のため築城をあきらめ、この地への移転を幕府に願い出て許されました。

安永9年(1780年)に築城を開始し6年余りで完成、以後明治維新まで85年間、内藤家6代の居城となったお城です。

散策路に豊田市教育委員会の説明板がありました。
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七州城は通称で、正式には地名の通り「挙母城(ころもじょう)」といいます。
この城からは、三河の山河をはじめ、遠く信濃・美濃・尾張・伊勢・近江・伊賀の7つの国の山々が望めるところから「七州城」と呼ばれました。

この7つの国について、今年のある信用金庫のカレンダーには「伊賀の国」が「遠江の国」と書かれているものが有りましたので、豊田市郷土資料館に問い合わせたところこんな返事をいただきました。

七州城の7つの国について、資料館では「伊賀」を含めており、「遠江」を含めておりません。
その根拠は、挙母藩家臣であった人物が記した『七州城沿革小史』に「伊賀」」とあるためです。
インターネットでは「遠江」という説もあるようですが、その資料的根拠が確認できません。
ということでした。

隅櫓の後ろ側の散策路に「擧母城址之碑」と刻まれた大きな石碑もありました。
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明治時代に描かれた七州城図が、七州城の様子を伝えています。
挙母藩士の子で画家の牧野敏太郎が挙母城の情景を実見した記憶に基づき、明治20年代に描いた七州城の鳥瞰図です。
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この図は七州城を南東上空から見た構図で、中央少し手前に大手門を、奥に本丸を据えて城郭全体を遠近法で描いています。

散策路の説明板にその図がありました。
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この画を参考として昭和53年に復元された七州城の隅櫓(すみやぐら)です。
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この隅櫓は、城の端の角に建てられた櫓で、戦いの時には敵を防ぐための施設で重要な働きをしていたものです。
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石垣は築城当時のものだそうです。
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隅櫓の正面には「七州城隅櫓再建之碑」と刻まれた石碑が置かれていました。
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江戸時代には七州が見渡せたといわれる高台ですが、現在では建物などが邪魔をして見渡せませんが、白壁と石垣の隅櫓は豊田市街地を見つめています。

豊田市内には国指定史跡が2つ有ります。
その1つは、室町時代の史跡で、多くの人に知られている徳川家康ゆかりの豊田市松平郷の「松平氏遺跡」です。

そして、もう1つの史跡が、豊田市猿投地区の舞木町に有る「舞木廃寺塔址(まいきはいじとうあと)」です。
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どんな史跡なのか興味があったので、先日、見に行ってきました。

国道419号線の「亀首町横枕」の交差点から、県道349号線を猿投神社方向に200mほど行ったところの右側に案内看板がありました。
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舞木廃寺塔址は小高い丘陵の上にあります。
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周囲は猿投の特産品の桃の木が植えられた果樹園です。

豊田市教育委員会が設置した史跡の説明板がありました。
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この場所から出土した瓦などの遺物から、白鳳時代のお寺の跡と考えられると書かれています。
白鳳時代というのは奈良時代の前半ごろになります。
舞木廃寺という名称は、お寺の名前が不明のため、史跡名はその場所の字名によって呼ばれているそうです。

塔心礎の周辺が国指定史跡の地域となっています。
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調査資料によると、塔心礎は東西156cm、南北180cmの不整形な花崗岩製で、
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その上面に外径86cm、内径54cmのリング状の溝を彫って柱座とし、その中に直径14cm深さ4cmの舎利孔を設けているということです。

猿投山の南のこの地には、猿投神社や、古墳時代の遺跡があるなど豊田市の歴史を知るうえで貴重な史跡などが多くあるようです。



豊田スタジアムのすぐ近くの豊田市森町に、縄文時代の遺跡があります。
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縄文時代から鎌倉時代にかけての遺跡である曽根遺跡は、昭和47年(1972年)に豊田市教育委員会によって発掘調査が行われました。
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発掘された縄文時代後期(約4,500年前)の竪穴建物跡2軒、古墳時代後期(約1,400年前)の溝跡などを整備して、昭和51年(1976年)に遺跡公園として一般市民がいつでも見られるように展示されています。
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曽根遺跡公園内には、発掘調査で確認された縄文時代中期の竪穴建物跡2軒と古墳時代後期の溝跡1条が保存されています。
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その隣には、縄文時代の復元家屋(竪穴建物)1軒があります。
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最近改修されたみたいで屋根の茅(かや)がまだ新しい状態です。
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入り口は通常は施錠されているので中には入れません。
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格子の扉から中を見ると、柱にはクリの木やナラ・カシが使われて、綺麗に造られています。
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静岡の登呂遺跡などを参考に復元したそうです。

遺跡公園の敷地内には、豊田市志賀町で発見された香九礼(かくれ)1号墳1基が移築されています。
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古墳時代後半のものと推定されています。
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古墳の内部です。
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住宅地の造成中に見つかったものをこの場所に移築保存されているものだそうです。
 
曽根遺跡公園に隣接する八柱神社境内には、前方後円墳(帆立貝式)の八柱社古墳があります。
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矢作川の左岸にあるこれらの遺跡は、挙母の町に住んでいた先人たちの貴重な物でもあります。

豊田市内には曽根遺跡のような縄文時代や弥生時代のたくさんの遺跡が有るようなので、もう少し調べてみたいと思っています。

豊田市郷土資料館は、昭和42年(1967年)に開館してから、今年、平成29年(2017年)で50年を迎えました。
常設展では「豊田市のあゆみ」旧豊田地域の歴史を原始から現代までの指定文化財などが公開展示されています。
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開館50年を迎えたこの機会に、豊田市内に伝わる文化財の魅力を再発見してもらうために、学芸員による常設展ギャラリートークが2月26日 (日) の午後に開催されました。

今回のテーマは、豊田市郷土資料館に展示されている重要文化財の「織田信長像のなぞをさぐる!」でした。
豊田市長興寺が所蔵している「紙本著色織田信長像」です。
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今回のギャラリートークでは、

① なぜ、豊田市に織田信長像の掛軸が伝わっているのか?
② なぜ、この画像が最もよく紹介されるのか?
③ この絵を描いたのは誰か?

という内容を中心に、午後1時半から、豊田市郷土資料館常設展に展示中の「紙本著色織田信長像」の複製を見ながら、描かれている織田信長像や、信長と市域の関わりの歴史について、学芸員の伊藤智子さんより説明がありました。
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この催しを新聞で紹介したこともあって、ざっと数えても70人以上の参加者が有り、会場のロビーは満員状態でした。

今回の話の中で、信長像の裃(かみしも)の家紋が織田家の代表的な家紋の織田木瓜ではなくて、なぜ足利将軍家の家紋の桐紋を着用しているかという説明がありました。

これは信長が足利義昭から拝領した家紋で、 皇室の家紋でもある桐紋を足利氏から拝領した武家として、名誉ある家紋といえるそうです。

またこの肖像画を描いた人物についての説明があり、絵の裏側に書かれている文字を写した写真を見せてもらえました。
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黒い文字で「狩野」と書かれており、朱印で「元秀」と印されていることから、狩野元秀の作と言われています。

狩野派の家系図で説明があり、狩野永徳の弟の狩野宗秀(そうしゅう)が元秀(もとひで)とも称していたということで、作者は狩野宗秀でも狩野元秀でもどちらでも良いようです。
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現在、この肖像画の実物は常には何処に保管されているのかという質問がありましたが、お宝などの保管場所は秘密にされていることが多く、この信長像も何処にあるか答えられないということでした。

そんな話の続きに、過去の修理の記録についての説明があり、記録に残っている一番新しいのが、昭和20年4月の太平洋戦争の最中に修理されていたということで、その後70年余の長い期間保存している中で傷みが出てきたということから、現在は京都の文化財修復所で修理されているそうです。

修理が終わった後、実物の展示については、信長が岐阜城に居城してから今年が450年という記念の年になるので、岐阜市で7月~8月頃に公開予定だそうです
(歴史上の記録に、信長がこの地を岐阜という名前に改めたとあります)

学ぶことが多かった豊田市郷土資料館のギャラリートークでした。


この肖像画は歴史の教科書でも採用されている、あの有名な戦国武将の織田信長です。
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昭和10年に国の重要文化財に指定されている「紙本著色(しほんちゃくしょく)織田信長像」の部分図です。

このお宝は豊田市の長興寺が所蔵しているものなのです。
そのお寺は豊田市街地から南へ2~3キロほど行った矢作川右岸に有ります。
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お寺の境内へ車が出入りできる通用門の北側には長い白壁の土塀が続いています。
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通用門を入るとすぐに、大きな石碑が有ります。
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石碑には「集雲山長興寺 愛知縣」と刻まれています。
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この石碑の左方向に鉄筋コンクリート造りの本堂が有り、
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本堂入り口に銘板が掲げられていました。
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本堂の横には、昭和55年に本堂庫裏を再建した記念碑があり、
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本堂の前には、豊田市教育委員会が作成した説明板が立てられていて、長興寺の説明が書かれていました。
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寺宝の中に書かれている「織田信長像」が「紙本著色織田信長像」のことです。

本堂の正面方向(南の方)に向かうと山門がありました。
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こちらが参道の入り口で、門には「長興寺」と書かれた銘板が掲げられています。
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それでは、なぜ長興寺に信長の肖像画があったのかについて調べてみました。

長興寺は室町時代初期の建武2年(1335年)に中条備前守秀長公が、菩提寺として建立したものです。
(境内の片隅に中条秀長公のお墓がありました)
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当時の寺域は、南北5丁(約550m)余り、東西4丁(約440m)余りあり、地域で最大の寺院でした。

永禄10年(1567年)、余りの偉容に城と間違えた織田信長の兵火によって長興寺は焼失してしまいました。
その後、信長の命で家臣の衣(挙母)城代・与語正勝によって長興寺は再興されました。

信長が天正10年(1582年)6月「本能寺の変」で倒れると、与語正勝は主君の死を深く悲しみ、信長像を京都の画家狩野元秀に描かせ、翌、天正11年6月の1周忌に長興寺に納め、法要を営んだと伝えられています。
この時納められた信長像が、全国的に有名な「紙本著色織田信長像」であり、今日現存している信長像のなかでは最も真の容姿に近いものといわれています。
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肖像画の上側には、
天徳院殿一品前右相府
泰岩浄安大禅定門 
天正十年壬午六月二日御他界

と書かれています。
右の二行は信長の戒名で、天正十年(1582年)壬午(みずのえうま)6月2日は本能寺の変で明智光秀に襲撃された日です。

下側には
右信長御影
為御報恩相
當於一周忌之
辰描之三州
高橋長興寺
与語久三郎
正勝寄進之 
天正十一年六月二日

と書かれています。

現代文に訳すと

右は信長のお姿です。
御恩に報いるために、
一周忌のとき、
これを描く。
三州(三河国)高橋の長興寺へ
与語久三郎正勝より
これを寄進する。
天正十一年六月二日

となります。

この複製が豊田市郷土資料館にあり、いつでもみることができるように展示されています。

豊田市郷土資料館では、開館50周年記念企画として、今週の日曜日(2017年2月26日)の午後から「織田信長像のなぞをさぐる!」というテーマで、ギャラリートークが開催されます。
なぜ、豊田市内に織田信長像の掛軸が伝わっているのか?
豊田市郷土資料館常設展に展示中の複製を見ながら、描かれている織田信長像や、信長と市域の関わりの歴史について話しがされるということです。

豊田市郷土資料館は「豊田大塚古墳」の発掘を契機として貴重な歴史的資産を活用し後世に伝えるために、昭和42年(1967年)に開館したものだそうです。
資料館が建てられる契機になったというその大塚古墳が、豊田市内に保存されているということなので、現地へ見に行ってきました。
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トヨタ自動車本社の南東1キロほどの、豊田市河合町一丁目、巨大なマンションが建ち並ぶ 一角に、ポツンと緑地が残ってます 。
そこに保存されてるのが豊田大塚古墳でした。
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土が盛られた円墳だったようです。
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愛知県指定史跡になっていて、立派な石柱と説明板が有りました。
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その横に、横穴式の石室の跡が有り、真新しい金属製の骨組みと透明なカバーで保護されています。
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柵で囲われていますが、石室内部には明るく光が入り、良く見えるようになっていました。
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長さが9m近くもある大きな石室です。

昭和38年の発掘調査で、この古墳からは多くの副葬品が出土したそうです。
その中の須恵器や刀など貴重な物は国の重要文化財に指定されており、豊田市郷土資料館に保管展示されています。
下の写真は、豊田市郷土資料館に常設展示されている大塚古墳から出土した装飾須恵器「台付四連壷(だいつきよんれんこ)」です。
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重要文化財に指定されたお宝です。

豊田市郷土資料館の開設50周年を記念して、2月18日(土)午後に豊田市文化財課の学芸員から須恵器の特徴や用途などの説明会が計画されています。

豊田市陣中町にある豊田市郷土資料館で、企画展「古い道具と昔のくらし ~もつ・かつぐ・はこぶ~ 」が開催されています。
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明治後期から昭和中期ごろまでの生活で実際に使われていた道具類が並ぶ企画展です。
企画展の開催期間は3月12日 (日) まで行われていて、入場無料で月曜日は休館です。

豊田市は中心を矢作川が流れ、山地から平地へと豊かな自然環境が広がっています。
その中で、昔から人々の暮らしの中で使われてきた古い道具は、私たちのご先祖様が知恵と工夫をつめ込んで作り、使ってきたものです。

自動車の無かった時代にたくさんの荷物を運んでいた道具や水を運んだりするバケツは昔はどんな材料で作られていたのかなど、今回は、そんな疑問に答える道具たちが展示されています。

企画展の展示会場、第2展示室の内部の様子です。
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「衣食住」のコーナーに展示品が並んでいます。
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柳行李(やなぎごうり)や葛籠(つづら)、ザル(イカケ)や徳利(とっくり)が展示されています。

徳利は貧乏徳利とも呼ばれ、昔は酒屋でお酒を買う際は量り売りで、この徳利を酒屋さんで借りて使ったようです。
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そのため、徳利には酒屋さんの名前や所在地が書かれていることが多く、地域の特徴をうかがうことができます。

「はたらく」のコーナーです。
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背負子(しょいこ)や背中当て、天秤棒やイヂコ(ビク)などが展示されています。

そして、「あそぶ」のコーナーです。
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トランクや信玄袋、アルミ製や竹製の水筒やメンバと呼ばれた一人用の弁当箱などが展示されています。

農家に育った団塊の世代の私には、むかし懐かしいものが多く展示されています。

硝子戸の外に自由に触れられるように置かれているものもありました。
田植えなどに使った、田舟と苗籠です。
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乳母車もありました。
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赤ちゃんの子守りに使いました。藤(ふじ)のつるで編んでありました。

イズミと呼ばれるワラで編まれた籠です。
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ごはんが冷めないように、おひつをわらで編(あ)んだ入れ物に入れておきました。
今は、電気炊飯器(すいはんき)に保温の機能(きのう)があり、使われなくなりました。 

荷台に野菜が積まれた大八車です。
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説明には、大人が運ぶ8人分の荷物をこの車で運ぶことができるから、この名前で呼ばれるようになったと書かれていました。

子供たちを対象にした展示のようですが、団塊の世代にも十分に楽しめました。

1月28日 (土) の中日新聞朝刊の地域版の「地名さんぽ」のコーナーに豊田市の鞍ヶ池(くらがいけ)が紹介されていました。
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この記事に中に、トヨタ鞍ヶ池記念館の副館長の話から聞いた「鞍ヶ池」の名前の由来が書かれています。

鞍ヶ池は今から350年ほど前の江戸時代初期の寛永年間(1624~1644)に、干ばつに悩まされていた農民たちが2年かけて田畑を潤すための灌漑(かんがい)用のため池を作りました。
その時代に、この辺りを治めていたのが「槍の半蔵」として名をはせた徳川家康配下の武将渡辺半蔵守綱の長男で、寺部城主の渡辺重綱が、池の出来具合の見事さに感心し、視察のために乗ってきた馬を降りて自らの鞍を「池の主になって末永くこの池を見守れ」と言って水中に投げ込んだのが、鞍ヶ池の名前の由来だそうです。

記事の中に、名前の由来の他に、現在池の耐震工事が行なわれており、3月に工事が終わるまで池の水が抜かれていて、いつもとは異なる姿を見せているという情報も有りました。

鞍ヶ池の水が抜かれた景観はなかなか見られないので、どんな状態になっているのか1月28日の午後、出かけてみました。

下の2枚の写真は、以前に写した通常の池の水が満水に蓄えられた時の鞍ヶ池の景観です。
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池の広さは125ヘクタールあり、水面にはレジャー用のボートが浮かんでいます。
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そして、1月28日の鞍ヶ池の景観です。
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水が抜かれて、広々とした池の底が見えています。
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ボート池に利用されていることもあってか、予想した以上に浅い池の底でした。
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池の姿が変わり果て、少し残っている池の水辺に、サギやカモなどの鳥たちが集まっていました。
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当たり前のことですが、干上がった池の中を見渡したところ、投げ込んだと言われている馬の鞍の姿は見当たりませんでした。
新聞の記事の最後に、トヨタ鞍ヶ池記念館には鞍をかたどった銅像があり、シンボルとして大事にされていると書かれていたので、記念館に行ってみました。
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駐車場で警備をされている方に尋ねたところ、その銅像は特別な場所に置かれていて、普段には入れない場所にあるということで、残念ながら見ることができませんでした。
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インターネットを検索して見つけた鞍の銅像の写真です。
画像が小さくて見づらいですが、よく見ると馬の鞍の姿がわかります。

鞍の銅像を一般の市民にも近くで見られるようにしていただければと、トヨタ鞍ヶ池記念館の関係者の方のご理解を期待したいと思っています。


豊田市街地から矢作川にかかる高橋を渡って少し進んだ左側にある豊田市寺部町で、武家屋敷の建造物「旧松本家長屋門」の一般公開が、4月9日 (土) にありました。

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この長屋門は寺部領主・渡辺家の家臣であった松本家に残された江戸時代の長屋門で、間口約21・8メートル、奥行き約3・8メートルで、江戸時代末期に建てられ、明治期に増築されたものです。
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武家屋敷にふさわしい質実な建物として、平成21年(2009年)に豊田市の有形文化財に指定され、5年後の平成26年(2014年)に松本家から豊田市に寄贈されました。

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その後、2年間かけて豊田市が傷みの激しかった建物全体を修復し、江戸時代の姿を取り戻しました。
長屋門には門番や使用人が詰める番所や、解体調査で新たに見つかった馬屋も復元されています。
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工費は約6100万円かかったそうです。
この長屋門内は資料館のようになっていて、松本家や周辺の歴史を紹介する展示がされています。
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松本家については・・・
江戸時代に現在の寺部地区の領主・渡辺家の家臣であった家です。
この寺部渡辺家の初代・渡辺守綱(わたなべもりつな)は徳川家康と共に戦い、徳川十六将の一人に数えられ、槍の名手として知られていました。
松本家の初代・浅利兵左衛門は、二代領主・渡辺重綱の時、守綱の命で客人として200石と家屋敷を与えられ、後に家臣となりました。
初代は浅利といいましたが、信州松本の出身であったことから松本を名乗りました。
と伝えられています。
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今後の旧松本家長屋門の公開は毎週 土・日曜日の午前10時~午後5時に行なわれています。
平日の見学については、事前に豊田市郷土資料館(文化財課)へご相談くださいということです。

豊田市くらし発見館で2月末まで開催されていた企画展「とよたの百年企業」で紹介されていた稲武地区にある御菓子所「まつ月」さんに、先日「いなぶ旧暦のひな祭り」に行った帰りに立ち寄りました。

お店の場所は、足助から稲武に向かう国道153号線で道の駅「どんぐりの里いなぶ」の手前およそ1キロの場所にあります。
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今まで何度もこの道を走っていますが、いつも通り過ぎていて、ここにこんな老舗の和菓子屋さんがあるということをくらし発見館の企画展で教えてもらうまで知りませんでした。
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まつ月さんは「2015年の楽天市場・冬のスイーツグランプリ」にて夏に続き、史上初の2大会連続グランプリを受賞されています。
全国13000店舗の中から2大会連続でグランプリ受賞という快挙を達成されたという素晴らしい店なのです。

広い駐車場が有りますが、国道の下り坂の途中にあるので注意していないとあっという間に通り過ぎてしまいそうな場所です。

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建物は平成7年に新しく建て替えられていますが、店の入り口には創業安政2年の文字があります。
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安政年間といえば幕末のペリー来航の時代です。
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創業以来160年余の歳月が流れ、現在の店主は8代目の方が引き継いでおられます。

まつ月の人気商品の本わらび餅は材料が入手する4月中旬まで出来ないということで、この日も買い求めに来たお客さんにお詫びしながら説明をされておられました。

私も残念ながらわらび餅をあきらめて、本そば饅頭を買って帰りました。

大倉公園で大府盆梅展を見た後で、公園のすぐ近くにある大府市歴史民俗資料館に立ち寄ってきました。
ちょうどこの時期に、季節の伝統行事である「ひなまつり」を通して、伝統文化に親しんでもらうために、「大府市歴史民俗資料館ひなまつり」を企画展示室と常設展示室にて開催されていました。
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ロビーに鮮やかな赤い布に並べられた7段飾りがあり、
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特別展示室には、江戸期の親王飾りや
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豪華な御殿飾りが並べられていました。
昭和10年のものと、
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昭和30年のものです。
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資料館の常設展では「懐かしい昭和再現」が見られました。
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駄菓子屋さんがあり
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店内には昭和の時代のものが並んでいます。
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懐かしい電化製品も並んでいます。
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ブリキのおもちゃや、
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ダッコちゃんもありました。
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茶の間があって、ちゃぶ台には雛祭りの食べ物が並んでいました。
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おこしものの説明があり、
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木型が並んでいました。
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昭和の再現の常設展は、団塊の世代にはどれもこれも懐かしい物ばかりでした。

11月29日の午後、大高緑地の合戦ワールドを途中まで見て、桶狭間の戦いに関係の深い国指定史跡がある大高緑地から近いところの名古屋市緑区大高町の丸根砦跡へ立ち寄ってきました。
この日のJR東海さわやかウォーキングと名鉄ハイキングの協同開催のコースに、丸根砦跡を通るコースが設定されていたので、たくさんの人がこの場所を訪れていました。
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名古屋市緑区のJR大高駅付近の城砦群の一つ。周辺は東海道線を境に西側に大高城跡、東側にはこの丸根砦跡と鷲津砦跡がそれぞれ国の史跡に指定されています。

歴史背景は、桶狭間の戦いの直前に、今川方の大高城と鳴海城の間を切断するように、鷲津砦と共に織田信長によって築かれた砦です。
30数メートルの小高い丘の上に、「史蹟 丸根砦阯」の文字が刻まれた石碑がありました。
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この丸根砦は織田方の佐久間盛重が守りますが、当時今川方だった松平元康(後の徳川家康)によって攻撃され全滅。佐久間盛重も戦士したと伝わります。


砦跡は住宅地の中の裏山のような場所にあり、丸根砦阯の石碑のすぐ近くに、地元の丸根砦慰霊奉仕会が建てた戦死者を追悼する慰霊碑もありました。
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丸根砦跡から近いもう一つの鷲津砦跡にも行ってみました。
ドングリの木の生い茂る小高い丘の坂道を登っていくと、林の中に石碑がありました。
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もう一つの織田方の砦があった場所で、ここも国の史跡に指定されています。
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近くに知多四国八十八か所の87番札所の長寿寺というお寺があるひっそりとした場所でした。
戦国時代には、ここで激しい戦いがあり、多くの人が亡くなった歴史ある2つの砦跡を訪ねて、豊田市へ戻りました。




先日、豊田市役所に行く用事があり、西庁舎北側の駐車場を利用しました。
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駐車場に植えられている豊田市の木のケヤキが色付いていました。
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特に、駐車場の外側の歩道に植えられているケヤキの葉っぱが、きれいに紅葉しています。
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久しぶりの市役所だったので、敷地の中を歩いてみました。

3年前の平成24年の12月に新しく建て替えられた東庁舎です。
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その東庁舎の前に、2人の銅像が建てられていました。
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向かって右側には中村寿一氏、左側には豊田喜一郎氏です。

中村寿一氏は、挙母町(現、豊田市)の町長だった人です。
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トヨタ自動車を戦前の昭和13年(1938年)に挙母町の雑木地であった論地が原(現在の本社、本社工場)に誘致しました。

豊田喜一郎氏は、昭和8年(1933年)に操業を始めたトヨタの創業者です。
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トヨタが工場を建てるために論地が原を買収したのは58万坪という広大な土地でした。

2人の顕彰会が平成6年(1994年)につくられ、2年後の平成8年に銅像が建てられました。
銅像の碑には、豊田市の経済が発展したのは、「工場誘致に粉骨砕身された中村氏、豊田氏の英断と努力によるもの」と刻まれています。
銅像への献花式は、市長やトヨタ自動車の豊田章男社長らが参加して、毎年3月の第1土曜日に行なわれているそうです。

豊田市の夏祭り、「豊田おいでんまつり」が7月25日(土)、26日(日)の2日間行なわれます。
今年で47回になるようです。
土曜日の夕方から始まる「おいでん踊りファイナル」の会場準備が豊田市駅前の街中通りで行なわれていました。
駅前のメインステージや
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交差点の照明塔や音響設備の架台の設営がされています。
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夕方5時にはこの道が踊り連の人や観衆で賑わいます。

今日は豊田市の最高気温が35℃を越えたそうです。
そんな日なので、今年は体力を考えて家でのんびりと地元のケーブルテレビで祭りの様子を見ることにしました。

おいでん踊りの準備を横目で見ながら、このメイン通りから一筋離れたところにある冷房の効いた涼しい「豊田市近代の産業とくらし発見館(発見館)」に行ってきました。
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発見館開館10周年企画展「古橋源六郎暉皃(てるのり)」が開催されています。
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幕末の時代に三河国設楽郡稲橋村 (現在の豊田市稲武町) の豪農古橋家に生まれた人のお話です。
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豊田市の偉人の紹介がされた企画展です。
館内撮影禁止なので写真はありませんが、発見館のホームページやブログで情報が入ります。

また、「YouTube」で古橋源六郎暉皃(てるのり)の物語が見られます(26分間)。

興味のある方は、一度発見館に出かけてみてはいかがですか。

先日、豊田市くらし発見館の企画展「明治~平成 まちなかの変遷」を見た後に、工事が始まった豊田市駅前通り北地区再開発地区の現地を見てみようと思い、喜多町に有った喜多神社の周辺に行ってみました。
喜多神社はすでに撤去されていて、神社横に有った挙母祭りの時の喜多町の山車蔵(だしぐら)が台座の上に載せられて40~50mほど移動していました。
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駅前北地区再開発で古い建物が壊されて新しい建物に変身しますが、喜多町の山車蔵はそのままの形で保存されることになったそうです。
工事が終わるまで一時少し移動させて、工事後にまた元の場所に戻されるということでした。
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もうすぐ取り壊される建物の裏に有った喜多神社と喜多町の山車蔵の跡は、もうすでに何も無くなっていて整地されていました。

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下の写真の中央の奥の方に移動された山車蔵が見えます。
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この道路の左側が、今までの山車蔵が有った場所です。

喜多神社の存続についての情報を調べてみると・・・
地元の自治区(約600世帯)では再開発後も〝氏神様〟の存続を願っており、北地区の地権者などで組織する再開発組合も地元の意向を汲み、工事でいったん移設はしますが、工事完成後は、ほぼ元の場所に戻すことを決めたそうです。
 
境内の今までの面積は252平方㍍で、社(やしろ)や山車蔵、鳥居、狛犬、灯篭などがありました。

下の写真は工事前の喜多神社です。(奥の方に山車蔵が見えています)
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山車蔵と神社の間には喜多町チビッ子広場がありました。
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移動される前の喜多町の山車蔵です。
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神社の社(やしろ)は祠(ほこら)規模に縮小されて新築される予定ということです。

特に灯篭は「享和3年(1803年)北町」の刻印がある200年以上前の古いもので、地元では指定記念物にはなっていませんが、この地区では歴史的なものであり、保存されることで挙母の歴史が残されることになったと喜んでいるようです。

挙母祭りの時の喜多神社前で待機する喜多町の山車の雄姿です。
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そして、喜多神社の灯籠です。
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町の建物は新しくなりますが、古くても地元の人たちにとっては大切なものは、キチンと残すという下町の人のあたたかい人情に触れたような気持になり、嬉しく思いました。

豊田市喜多町にある、豊田市近代の産業とくらし発見館(略称:くらし発見館)では、「明治・大正・昭和・平成 まちなかの変遷」というテーマで4月5日まで企画展が開催されています。
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今と昔が共存する「豊田市」中心市街地。
ここには大型の商業施設とともに、昔ながらの路地や建物、明治・大正・昭和期から続く商店も数多く残っています。
この地区において、2年後の平成29年の完成を目指した「豊田市駅前通り北地区第一種市街地再開発事業」が動き始めました。
今回の企画展では、明治・大正・昭和・平成と時代が変化していく中で「挙母村-挙母町ー挙母市ー豊田市」と地名の名前が変わりながら豊田市中心市街地の変遷を地図と写真で紹介するとともに、「豊田市駅前通り北地区第一種市街地再開発事業」について紹介されています。
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館内の展示室には、明治期から大正・昭和期の古い写真が並びその時代の頃の町なかの様子が説明されています。
昭和初期の町なかの中心部の写真です。
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挙母駅(現在の名鉄豊田市駅)の駅前通りの様子が写されています。

昭和26~28年頃の中町通り(現在の桜町通り)です。
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挙母神社へ通じる道で、毎月8日の「八日市」は子守薬師の縁日にちなみ、薬師サービスとして昭和26年に始まったそうです。

昭和20年代の末から30年代の駅前の昭和町にあった共同店舗の「挙母マーケット」のゲートです。
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魚屋や雑貨店などが通路を挟んで両側に並んでいたようです。
8日が特売デーになっています。

昭和30年代の喜多町通り(現在のひまわり通り)から竹生町方面を見た写真です。
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昭和34年に挙母市から豊田市に市名が変更され、駅の名前も挙母駅から豊田市駅に変わりました。
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その2年後の昭和36年の豊田市駅は「夢とくらしのターミナル」をキャッチフレーズにステーションターミナルが竣工した時の写真です。

豊田市の中心市街地には、かって3つの映画館が有りました。
明治15年に建設された劇場の「祝栄座」の建物をその後、昭和9年に「挙母劇場」に改名し、映画館として営業したそうです。
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その他に「昭和劇場」と「アート座」の2つの映画館が昭和の時代の映画の全盛期には大勢の観衆で賑わったそうです。
けれども時代に変化で、平成6年頃には豊田市市街地のすべての映画館が閉鎖しました。

3つの映画館の一つ、アート座のジオラマ(立体模型)が展示されていました。
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細かいところまで本物そっくりに出来ています。
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館内に貼られた「エレキの若大将」や「モスラ対ゴジラ」の映画ポスターが確認できます。
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素晴らしいジオラマの出来栄えに、すっかり見入ってしまいました。

私は昭和50年頃に名古屋から豊田への流れ者ですが、生まれ育ちが挙母(豊田)の、われわれ団塊の世代に近い人たちは、懐かしそうに写真の前でいつまでも話が弾んでいます。

4月5日までの企画展です。
昭和の時代に豊田市で生まれ育った方は必見です。そうでない方も一度足を運んでみてはいかがですか。
行けれない人でも、くらし発見館のホームページやブログで見られますので参考にしてください。
以上、くらし発見館のPRでした。


豊田市陣中町にある豊田市郷土資料館では、11月末まで平成26年度の特別展が行なわれています。
展示もあと半月余りになったので、見に行ってきました。
特別展は
 豊田英二とその時代
    自動車を愛した豊田英二
      ~ものづくりのまち 豊田市への歩み~  です。
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郷土資料館の入り口と本館の一部の外観です。
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入り口には資料館の案内パネルがありました。
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特別展の受付でいただいた資料の一部です。
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第1展示室の常設展示品も片付けて、さらに第2展示室と二つの展示室を使って、豊田英二氏の功績や豊田市発展の歴史を、英二氏の愛用品・豊田市の発展に関わる資料等から紹介されていました。

館内は撮影禁止なので残念ながら展示物の写真はありません。

豊田市の名誉市民 豊田英二氏の生い立ちから亡くなるまでの100年の歴史が、挙母町から豊田市への変遷と並行して紹介されていました。
興味のある内容がたくさんあったので、1時間以上かけてゆっくりと見てきました。


特別展とは別に、郷土資料館の敷地内には民俗資料館の建物があります。
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この建物は茅葺(かやぶき)ですが、葺き替えが困難なためと防火のために屋根にトタンをかぶせてあります。
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館内には祖先が日常生活で使っていたものが展示されています。
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子供の頃に遊んだものも棚に入れられて並んでいました。
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おはじき
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べいごま、だるまおとし
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わらぞうり(藁草履)も並んでいて、自由に履いてみてくださいと書かれています。
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他にも昔懐かしいものがたくさん展示されていて、団塊の世代には昭和の昔を偲ばせてくれる場所です。

外の庭には何本かの道標が並んでいました。
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何処に立てられていたものかの説明はありませんが、江戸時代に塩の道などに立てられていたものを資料館に集めたものだと思われます。


今日は、東海道新幹線が開業してから、ちょうど50年になる日です。
東京オリンピック開会の直前の昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線の営業がはじまりました。
当時は国有鉄道(国鉄)が運営しており、開業時の東京と新大阪の所要時間は0系新幹線の「ひかり」で4時間ちょうどでした。
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東海道新幹線をオリンピックに間に合わせるようにと、短い工期で何とか開業にこぎつけたという経緯があり、路盤の安定などを配慮し、開業後1年間は馴らし運転の意味合いで、最高速度を210キロとしました。
東京駅から新大阪駅までの所要時間は「ひかり」では4時間、「こだま」では5時間で運転していました。

そして翌年(昭和40年)の11月以降は、ダイヤ改正して0系「ひかり」が、最高速度は210キロのままで、東京駅と新大阪駅を50分も短縮して、3時間10分で運転されています。
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その後、新型の100系で最高速度を220キロと10キロスピードを上げて同区間が2時間49分となりました。
100系新幹線です。
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さらに平成4年(1992年)3月のダイヤ改正で登場した300系で最高速度が270キロとなり、同区間を2時間30分まで短縮しました。
300系新幹線です。
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5年後の平成9年には500系が、そしてさらに2年後の平成11年には700系の登場しています。
最高速度は270キロのままです。
700系新幹線です。
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平成19年(2007年)7月に登場したN700系では最高速度はそのままでしたが、加速性能などを向上させて、同区間の所要時間を5分短縮して2時間25分にしています。
N700系新幹線です。
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来年の2015年春から、23年ぶりに最高速度を285キロに引き上げる計画があるようです。
これにより東京駅 - 新大阪駅間が2分から3分短縮される見通しです。

平成11年9月にさよなら運転で名古屋駅に到着した0系の「こだま」です。
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名古屋市港区にあるリニア鉄道館には、現役を終えた0系新幹線が展示されています。
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その横に並んでいる歴代の新幹線。
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そして、愛・地球博でお目見えした超伝導リニアの実験車両も展示されています。
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東京駅から40分で名古屋駅に着いてしまうという中央リニア新幹線が、13年後の平成39年(2027年)の営業開始を目標に工事が始まりました。
それまで元気に頑張って、実物のリニア新幹線に乗れる日を楽しみにしています。

余談ですが、名古屋市緑区の実家の田んぼの土地が新幹線のルートで買収されたことで招待状がもらえ、何故かその時高校1年だった私が、その特典を使って、50年前の昭和39年の新幹線が営業を始める前の9月に行なわれた試乗会で、名古屋駅から豊橋駅までの往復運転に乗せてもらったことを思い出しました。

今日8月8日は、何の日か調べてみました。

8が二つでパパの日?とも思ったのですが、日本には父の日があるので、パパの日じゃなかったです。
「ぱちぱち」とそろばんの玉を弾く音の語呂合わせから、「そろばんの日」でした。
全国珠算連盟が、昭和43年(1968年)に制定したそうです。
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そろばんの歴史を調べてみると、そろばんの原型は紀元前のメソポタミアで誕生したといわれています。
それが中国に伝わり、現在のように珠を串刺しにする方式に進化しました。

このそろばんが日本に伝わってきたのは、今から500年程前の室町時代ともいわれています。

そろばんは長い間、計算の道具として広く使われて来ましたが、やがて電卓が普及し始めるとそろばんはだんだん部屋の片隅に追いやられました。
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やがてコンピューターが登場すると、計算はコンピューターが自動的に処理する時代になり、電卓もほとんど使用されなくなってしまいました。

このように、世の中は便利になり、そろばんを使って計算する必要は無くなったのですが、そろばんが、計算する上で洗練された素晴らしい道具であることに変わりありません。

このタイミングで、そろばんに関する報道がされていました。
国内で現存するものとしては最古とみられるそろばんが、老舗メーカーの雲州堂(大阪市中央区)で見つかったということです。
16世紀末、豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師、黒田官兵衛の側近が秀吉から与えられたものとされ、作りは豪華で保存状態も良好。7日から同市内で開かれる文具の見本市で初公開されています。

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そろばんは中国式の「二-五珠(たま)」。
枠が紫檀(したん)材で銀の装飾があり、片面に「貫」など重さの単位が、裏面には「石」などコメの量の単位が、それぞれ記されています。
雲州堂が戦後間もないころに入手したものでしたが、製造年代などは不明だったものです。

謎解きのきっかけは、NHKの大河ドラマでの官兵衛ブームと、そろばんを収めた木箱に墨書された「四兵衛重勝拝領算盤」の文字。
四兵衛重勝は、官兵衛の側近である「黒田二十四騎」の一人、久野重勝のことだったことからです。

今から60年前のいにしえに、そろばん塾に通った記憶のある団塊の世代のみなさん。
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まだ家のどこかに、そろばんが有りますか?
もし有ったら、孫に昔の腕前を披露してみてはいかがでしょうか。

やつば池散歩道のブログは、 花やガーデニングが多いので、今回はチョッと変わった話題です。
豊田市内にも多くの古墳が有りますが、その中でも最大級の古墳群を紹介します。

豊田市平戸橋町、矢作川の左岸の丘陵地にある馬場瀬(まばせ)古墳群です。
5年ほど前の2009年4月に、豊田市の文化財課が誰でも気軽に見学ができるように、案内看板や遊歩道を整備しています。

豊田市街から国道153号線の平戸橋を渡って足助方面に少し行くと、右手にこの看板があります。
 
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Uターンに近い右折をして急な坂道を登って行きます。
住宅地を抜けて砂利道を少し行くと、馬場瀬神社の駐車場があります。
そこに車を停めて、案内板に従って進んでいくと、古墳群の場所に着きました。
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散策路には歩きやすいようにウッドチップが敷かれています。
今回の整備の前の、昭和59年に建てられていたと思われる古墳群を説明した石碑がありました。 
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7世紀頃に造られたもので、一番奥にある8号墳が最も良く原形をとどめている、と説明されています。
その8号墳です。
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 説明板がありました。
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8号墳の大きさや、ここから出土した土器などの写真が紹介されています。
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この8号墳の石室の中には、入ることができます。
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遺体が納められた棺(ひつぎ)が置かれていた石室の内部です。
最奥部には、奥壁と呼ばれる2枚の大きな石があり、高さが2mを越える大きなものです。
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石室の天井です。最大幅は2.1mあり、4枚の天井石が架かっています。
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そして側壁です。
大小の石がしっかりと積まれています。
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石室から外を見たところです。
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ガッチリと丈夫に造られていて、中にいても恐怖感はありませんでした。 

古墳群の周囲は緑がいっぱいで、すぐ近くを国道153号線が走っているようには思えない、静かな場所でした。
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緑の木立の中で、ウグイスの鳴き声が聞こえます。
 
国道153号線で足助方面に行くときに、平戸橋を渡ったらすぐのところですので、一度訪ねてみてはいかがですか。

最近のブログは花の話題が多いので、今回はちょっと違った話題にします。
八ッ谷池から西へ1キロほどの所に歴史の古い宮口神社があります。
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神社の入り口にある案内板によると文明5年(1473年)に創立と書かれています。
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室町時代の終わりごろから戦国時代に入った頃に出来た神社ということです。
そしてその昔、宮口神社の近くのこの村には津島神社(天王社=お天王さん)がありました。
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田植えが終わった頃に天王祭りが行われていて、お祭りの提灯の列に蛍が飛び交いお参りする人たちで賑わった話も由来記に残っています。
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この天王社は大正6年の神社合祀令で宮口神社に統合され無くなりましたが、その場所は今、ちびっこ広場になっています。
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その広場の隅に天王社跡の石碑が建てられています。
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平成13年に整備されて真新しい石碑の中に、一つだけ昔からあったと思われる古い手水石が残されています。
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今は使われていなくなったその石をよく見ると、その手水石の周りには10個を越えるたくさんの凹んだ穴があけられています。
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手水石には年号などの刻印が消えていて何時のものかは不明ですが、この凹んだ穴は歴史的にも貴重なものなんです。
この穴のことを「盃状穴(はいじょうけつ)」と言います。

盃状穴について調べてみると、
石に対する信仰は日本でも古くから存在し、日本の盃状穴は縄文時代から作られています。
子孫繁栄や五穀豊穣や病気治癒などを願ったものとされています。

鎌倉時代から江戸時代には、村の入り口などに魔よけの目的で作ったり、神社の灯篭や手水石等に彫る事が多くなりました。
盃状穴信仰は昭和初期までは作られていたという説もあります。
ということです。
その昔に、宮口村の人が天王社にお祈りしながら、石をコツコツと叩いていたんです。
いったい何をお願いしていたんでしょうか?
近くで、こんな貴重な物を見つけて、チョッとビックリでした。

今日4月5日は、二十四節気の一つ「清明(せいめい)」です。
万物が若返り、いろいろな花が咲き乱れ、清々しく明るく美しい頃ということです。
けれども最近は、地球の温暖化で桜の開花が早くなりました。
昨日の強い風雨で満開の桜が、もう散り始めています。
ところで、昨日(4日)の午後、豊田市駅の東側の喜多町にある、「豊田市近代の産業とくらし発見館(略称=くらし発見館)」という施設に行ってきました。
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今行なわれている写真展「あれから10年 名鉄三河線廃線区間」という企画展が、明日の4月6日で終わってしまうので、ぜひ見ておきたかったからです。
平成16年の3月末で、豊田市の猿投駅から西中金駅までの名鉄三河線が営業を停止しています。
使われなくなった三河広瀬駅などのその後の風景の写真が展示されていました。
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その展示会場には、戦前(昭和12年)の挙母町の地図と、挙母市になったあとの昭和27年の地図が掲示されていたので、思わず八ッ谷池をさがしてしまいました。
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この地図を写真に撮ってきて、家で溜め池の名前を書き込んでみました。
昭和12年の挙母町の地図を拡大したものです。DSCN0430a
八ッ谷池などの溜め池が地図に書かれていました。
そして逢妻女川の西側一帯には、磨砂採掘場がたくさん有ります。
今の貞宝ゴルフ場のあたりは、磨き砂の採れる山だったそうです。
その15年後の昭和27年の地図を拡大したものです。
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地図には何も書かれていませんが、そのころの池の周辺は今の住宅地とは想像もつかないほどの山野だったのだと思います。
でも、なぜあの溜め池が八ッ谷池という名前の池になったのかという疑問は解けませんでした。DSCN0426
くらし発見館の敷地内にも大きな桜の樹があり、満開でとっても綺麗でした。

八ッ谷池から南西方向に750m(歩いて7~8分)ほど行ったところに、戦国時代にお城が有りました。
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その場所はこの地図に示すところです。DSCF0012a
今は住宅地になっていて、その面影は全くありません。
すぐ前にコンビニが有ります。
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その城跡には、逢妻史跡研究会の方たちが立派な説明板を立てています。
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お城の絵が描かれていたので、当時の様子がうかがえます。
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説明文によると、この城は1560年(桶狭間の戦いの年)に織田信長軍に攻められて落城しています。
今から450年前の戦国時代の出来事なのですが、八ッ谷池近くの住宅地の中にもこんな歴史のある場所があるということなので、これからも近くを散策しながら少しずつ調べてみようと思っています。

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